Ⅳ 海の男
六年という歳月は、子供にとっては長く、大人にとっては瞬く間のように短い。
母を失った日のことも、ラパステーへ「嘘つき」と叫んだ日のことも、静まり返った別宮を歩いた日のことも、曲来の節くれ立った掌の温もりも決して忘れた訳ではない。ただ、それらは少しずつ心の奥へ沈み、今では穏やかな記憶として残っていた。
誕生日を間近に控えたオルガは、期待と不安を裡に抱え、当て所なく気ままに歩いていた。そして、気が付けばオルガは港の端の軍港に入り込んでいる。衛兵たちは何度もオルガを見ていたからか、互いに頷き合って行く手を阻むことはなかった。
オルガは別宮よりも、喧騒が満ちた港が好きだった。母を失ってからは、時折、こうして港にやって来ては、時を忘れて船を見ている。潮の香りがオルガの鼻をくすぐる。始まったばかりの夏が潮風を少しだけ重たくしていた。
桟橋には、白い巨船が静かに繋留されている。
「……エーリウ・ソラス。御母様の艦」
〈エーリウの光〉はエーリウ女公の座乗儀礼艦たる巨大艦だ。闘艦を二艘、横に並べたほどの巨体を誇る。ただし、儀礼艦であるため武装は見えず、上品な貴婦人を思わせる装いだった。ブルトンでは「動く白き女公城」という渾名で呼ばれる。
ブルトン連合王国の青龍旗と並んで、紅馬と一角獣が描かれたエーリウの双獣旗が、海風を受けてゆっくりと飜えっていた。あの艦を見ると、決まって思い出す。六年前、母を故郷へ送るため、この艦でリオンデールの港から船旅に出たことを。だが今は——
§
幼いオルガは、港へ着くなり〈エーリウの光〉を見上げた。
真っ白な船体。高く聳える船楼。青龍旗と双獣旗が掲げられ、近衛兵が整然と立ち列んでいた。その向こうにはエーリウの海兵が不揃いに列んでいる。
誰が見ても美しい船だった。けれど、オルガは一度見上げただけで、すぐ港中を見回し始める。
「……ダルバーンは?」
侍女たちが苦笑する。オルガが、〈エーリウの光〉の堅苦しい雰囲気を好まず、特定の護衛艦に乗り込むのはいつものことだったからだ。
「あちらですよ、姫様」
アウラが指差した先、少し離れた桟橋に、一隻の護衛艦が停泊していた。ガウマーラ級護衛艦〈ダルバーン〉。大きさは〈エーリウ・ソラス〉に遠く及ばず、四半艘ほどしかない。だが、細身の船体は海を駆ける狼のようで、帆柱には幾筋もの索具が張り巡らされ、水夫たちが威勢よく声を掛け合っていた。
その中に、オルガの探し人は居らず、さらに落ち着きなく視線をあちこちに向ける。
——居た!
その男は列びもせず、優雅に長椅子で昼寝をしていた。見つけるや否や、オルガはスルリと侍女たちの囲いを抜け出し、一目散にその男の許に走り出す。
「姫様!」
「フィンバロス!」
オルガが声とともに飛んだ。呼ばれて反射的に起きた男は、飛んでくるオルガを見て驚きもせず、抱きとめた。
「おっと、お嬢! あぶねーじゃねぇか」
「フィンバロス、お酒臭い!」
日に焼けた大男が豪快に笑い、オルガを軽々と抱き上げた。オルガは彼の赤ら顔とまだ抜けきっていない酒気にお冠だ。
彼の名はフィンバロス・トンネイア。エーリウ海軍に属する海蛇族のトンネイア家の若当主である。五年前、父親が事故で負傷して艦長を務められなくなったため、艦長代理となった。
「いやぁ、明け方まで飲んでてな。って、今日も来たのか」
「うん!」
この日は月に一度の女王の日という〈エーリウの光〉の座乗日である。本来であればオルガもオレネイアと共に座乗するのであるが、逃げ出してきたのだ。
フィンバロスの肩に乗ったまま、甲板へ上がると、水夫たちが口々に笑顔を見せる。何食わぬ顔で、フィンバロスに続いたアウラを、オルガが驚いた顔で振り返った。
「姫様だ!」
「今日も船倉へ潜る気だぞ!」
「見張り台だけは勘弁してくださいよ!」
皆が笑顔を見せ、愉しげに話している。〈エーリウの光〉では見られない笑顔だった。
「どうして、こっちの船はこんなに賑やかなの?」
オルガの疑問は尤もだ。大人からすればダルバーンとエーリウ・ソラスは、規模も用途も違う。だが、オルガにしてみれば同じ海に浮かぶ艦なのだ。フィンバロスは船縁へ肘を掛け、港を眺めながら答える。
「一艘一家だからな」
「イッソウイッカ?」
「艦一艘が、一つの家族ってことだ」
オルガは首を傾げる。護衛艦でも四十人ほどの乗組員がいた。それが全て家族と言われても、ピンとこない。オルガのキョトンとした顔が可愛らしくて、フィンバロスは笑った。
「同じ艦の船乗りはみんな家族なんだよ」
「家族?」
「同じ飯を食って、同じ海を渡って、同じ嵐を越える。互いに命を預け合う——だから家族なのさ」
オルガは周囲を見回した。
甲板には帆を畳む者、甲板を磨く者、樽を転がす者、縄をまとめる者。誰もが忙しく働いているのに、皆どこか楽しそうだった。
「だから、みんな仲良しなの?」
「そういうことだ」
フィンバロスは大きく頷いて、頭を撫でた。髪をぐしゃぐしゃと搔かれるのをアウラが睨む。当のフィンバロスは何処吹く風で、オルガは嬉しそうにしていた。
「いいなぁ」
思わず漏れた言葉だった。オルガにとって家族とは母とジュナ、そしてアウラぐらいだが、ジュナとアウラは侍女であり、血の繋がりはない。そういう意味では父王と母、ようやく生まれた弟だけだが、父王は少し遠かった。
〈エーリウの光〉は立派な船だ。けれど、静かで、礼儀作法ばかりで、何となく息が詰まる。それに比べ、〈ダルバーン〉には潮の匂いがあり、笑い声があり、生きた海があった。
「私は、こっちの艦の方が好き」
その一言に、水夫たちは大笑いした。肩を組んで、互いに叩きあって喜びを表す。
「聞いたか!」
「姫様は女王の艦より俺たちの船がいいってよ!」
「これは自慢になるな!」
フィンバロスだけは困ったように頭を掻いておいて大笑いした。
「内緒にしてくださいよ、お嬢」
要領を得ない顔で肯いたオルガであった。
§
潮風が、オルガの髪を揺らした。目の前には、静かに繋留された〈エーリウの光〉がある。母を亡くしてからは〈ダルバーン〉を探して港を走り回ることもなくなった。
フィンバロスが語った「一艘一家」という言葉は、今も心に残っている。そして、その意味を、あの頃の自分より少しだけ理解できるようになっていた。また、曲来から「為政者は民の父母である」と言われ、フィンバロスの言葉と似ていると話すと、曲来は破顔してオルガの頭を撫でたのだ。
「それよ、それ。本質を見抜く目は持って生まれてくるものだからのぅ」
曲来の言葉は時々分からない。分からないが「いずれ悟る」とだけ言うのだ。そういえばフィンバロスも例えはしても、仕組みを説明したりはしなかった。
——教わっても覚えないからかのう。
曲来は笑ってそう言っていた。
オルガは静かに〈エーリウ・ソラス〉を見上げる。六年前、この艦は母を故郷へ運んだ。オルガも柩とともに海を渡り、エーリウの首都ダーナターラヘ帰った。
あの時、オルトはまだ幼く、リオンデールへ残された。その後もオルガが帰国する時に連れて帰ろうとするが、折り悪く熱を出したり、体調を崩したりとこの六年間で一度も連れて帰れて居ない。
——オルトはブルトンの方が合って居るのかもね。
特に理由がある訳ではないが、そう感じた。リオンデールは寒いが、ダーナターラはもっと寒い。隔てる海峡を渡ったブレイシュならもっと暖かく、オルトが暮らすにもいいかも知れなかった。
そして今、その姿は、母との記憶を運び続けていた。
§
オルガは〈エーリウ・ソラス〉への乗艦を拒んだ。いつもは笑顔で〈ダルバーン〉に送り出してくれるジュナも、いつもは何食わぬ顔で付いてくるアウラも首を振って許してくれない。
「姫様……お願いです。ソラスにお乗りください」
「……オルガ様」
押し問答が続く中、フィンバロスが顔を見せた。侍女の誰かが呼びに行ったのだろう。服装は乱れたままで、首に巻いたスカーフに口紅が着いていた。
「フィンバロス!」
救いの神が現れたかのように、渋い顔をしていたオルガが、笑顔でフィンバロスの許に走り寄った。フィンバロスはオルガの頭を、無造作に撫でて斜屈む。
「お嬢——いや、オルガ様。今回だけはいけません」
オルガは目を見開く。まさかフィンバロスまでがそんなことを言うとは思いもしなかった。
「貴女が、お母さま——オレネイア女王の側に居なくてはソラスは動かしてはいけないのです。だよな? ルアドリオ」
そこには苦い顔をした紅毛の男が立っていた。




