↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
オルガ―狂奔の女帝―Ⅰ.紅への道  作者: 月桑庵曲斎
第一章 母との想い出
15/21

Ⅲ 静かなる別宮

 仮葬儀が終わった別宮は、静まり返っていた。オルガたちも本葬儀のため別宮を離れ、エーリウの首都・ダーナターラへ向かう予定ではあるが、出立はまだだ。


 侍女たちは渡航の準備に掛かりきりであったが、ジュナから「姫様をそっとしておくように」と同時に「それとなく目を離さないこと」も念を押されていた。だから、誰かしらオルガの見えるところに居る。それも全員が一言も喋らず黙ったままだ。だが、普段なら(さと)いオルガが、そのことに気づいた風でもない。


 ブルトン王国の首都リオンデールからダーナターラまでの旅程は、通常二週間ほどで天候によっては最大四週間ほど掛かることもある。海岸線沿いに進むので、食料や水などの心配はないが、衣類などはどうしても必要だ。


 いつもなら侍女たちのお喋りが姦しい程なのに、皆、黙々と荷造りをしていて、母がいた頃とはまるで違う場所のように思えた。


 オルガは頼りなげに歩き、廊下の途中でふと立ち止まった。そこは別宮のテラスに繋がる廊下の中ほどにある丸く膨らんだオーリエルである。


——ここで、お母さまが笑ってた。


 思い出されるのは、悲しい記憶ではない。幼い頃の、何の気なく見て、当たり前だと思っていた母の笑顔だった。


§


 オルトが生まれて直ぐのこと。オレネイアが産後の肥立ちを終え、火と鉄で床払いの儀式をして、動き回れるようになってからだ。


 火は寝たきりであった産婦に活力を与え、部屋に溜まった湿度を祓う浄火である。


 このとき父王がオルトリアという名前を弟に与え、山羊のミルクで祝うのがケルトの風習で、これについてはエーリウもブルトンも部族が違っても大きな代わりはない。


 赤子を抱いたオレネイアは、ようやく出られた寝室に近いこの渡り廊下のオーリエルでオルガを手招きした。


「ほら、ご覧なさい」


 腕の中では、小さな赤ん坊が静かな寝息を立てている。赤子の産着にはオルトリアスと筆記体で刺繍が施されていた。


「かわいい……」


 斜屈みこんだオレネイアの腕の中を、恐る恐る覗き込むオルガに、オレネイアは微笑んだ。


「これからは、オルガもお姉ちゃんね」

「……お姉ちゃん……!」


 その響きがくすぐったい感じがした。少しだけ照れ臭く、そして、とても誇らしい。口にしてみると、オルトとの繋がりを強く感じて、自分が守らなければ、と強く思った。


 だから、オルガは何度も頷いた。


「うん! 宜しくね、オルトリアス」


 その返事を聞いて、オレネイアは優しく頭を撫でた。オレネイアはそんなオルガを見て肯く。それは母親というより、エーリウの女公が安心した顔だった。


§


——あれは、私に母性があると、安心したのね。


 思い返してみれば、分かることだが、当時は何故自分に女王の顔を見せるのか分からなかった。分からなかったが、公務の顔であることだけは感じられ、誇らしい気分だったことも思い出す。


 そして仔猫の鳴き声を耳にした。キョロキョロと辺りを見回すと、下の庭で、侍女が辺りを気にしながらミルクを与えている。何処からか入り込んでしまった仔猫が、可哀相になったのか、隠れて飼っているようだった。


 その泣き声に、記憶の中のオルトの泣き声が重なった。


§


 その夜、オルガはひと月ぶりに母の寝室に泊まった。床上げを機に自分専用の部屋を持たされたのだが、オルトの側を離れようとしないオルガを見て、オレネイアが許したからだ。


 寝静まった別宮で、不意に赤ん坊の泣き声が響き渡る。オルガは飛び起きた。驚いたオルガはベッドを飛び出して、寝間着のままオレネイアの寝台へと走り出す。直ぐに泣き止んだものの、あんなに泣くのだから何かあったにちがいない!と一目散に母の許へ急いだ。


「お母さま!」


 寝台へ駆け込むと、オレネイアは慌てることもなくオルトを抱き上げていた。優しく緩やかに揺らしている。


「オルト、痛いの?」


 心配そうに尋ねるオルガへ、オレネイアは首を横に振る。オルガは今にも泣き出しそうだった


「違うのよ。赤ちゃんは、自分で何もできないから、泣き声で何がしてほしいか知らせるの」


 驚いた顔でオレネイアを見てから、小さな弟を見つめた。


「じゃあ、お腹すいたの?」

「そうかもしれないわ」

「眠いの?」

「そうかもしれない」

「寂しい?」


 矢継ぎ早に問い掛けるオルガに、オレネイアは優しく笑った。オルトはむずがるようにモゾモゾと動く。


「それもあるかもしれないわね」


 そう言ってオレネイアがオルトを抱き寄せると、オルトからむずがる様子が消え、眠りに誘われていった。


「泣き声を聞けば、その子が何を伝えたいのか、だんだん分かるようになるものよ」


 オルガは目を輝かせて、真剣な顔で何度も頷いた。


「私も分かるようになる?」

「ええ。きっと誰よりも優しいお姉ちゃんになれるわ」


 オルガはオルトに頬擦りして、そのままオレネイアの膝の上で眠りに落ちた。


§


 それからのオルガは、乳母やオレネイアに付いて回り、何かにつけてオルトの世話を手伝いたがった。揺り籠を揺らし、毛布を掛け、玩具(おもちゃ)を運ぶ。ケルト伝統のガラガラ(ハープ・ラトル)も付けて。


 その度にジュナとアウラは慌てて後を追い掛けた。


「姫様、そこは私が!」

「大丈夫!」


 そう言って胸を張る姿に、部屋中が笑顔になった。オレネイアも、ジュナも、アウラも他のお付きの侍女たちも、オルガの微笑ましい様子に癒やされる。


 その日も別宮を訪れていたラパステーも、その光景を目を細めて見守っていた。だが、オルガの視界にはオルトだけで、ラパステーは入っていない。


「姫様は、本当に弟君が可愛くて仕方ないご様子ですな」

「そうなのよ」


 オレネイアは嬉しそうに頷く。母としてもイケニの女王としても、オルガに慈しむ心が育まれることは望ましいことだからだ。


「良いお姉ちゃんになってくれそうでしょう?」

「きっと、優しいお姉様になられます」


 ラパステーの言葉に、オレネイアは静かに笑った。その母の笑顔が見られることが、オルガの喜びでもある。そして、その幸せがいつまでも続くものだと疑いもしなかった。


§


 気が付けば、オルガはテラスへと出ていた。オーリエルから繋がる渡り廊下を振り返ったが誰もいない。テラスのテーブルにはアーモンドミルクが銀坏に注がれて置かれていた。恐らくアウラが先回りして用意したのだろう。


「ありがと、アウラ」


 姿は見せないが寄り添ってくれていることが感じられて、オルガは孤独になったような錯覚に陥っていたことに気付くことが出来た。


 もう、オレネイアはいない——それはオルガとオルトの庇護者が居なくなったことを意味する。ジュナはそれを感じており、他の侍女たちも、先行きの不安から口数が少ないのもあり、別宮は静まり返ったままだ。


 笑い声も、泣き声も聞こえない。肌寒い風だけが庭を渡っていた。


「……もう泣かんのか?」


 不意に背後から声がした。溌溂とした明るい音は青年のようだが、振り返ると、白髪混じりで髻を結った東洋人が立っている。


 この男は、一昨年の夏にリオンデールからエーリウに戻る船旅で漂流しているところを救われ、そのままオレネイアに付いてきた風来坊である。名を(チュィ)(ライ)といった。


 最初は言葉も通じず、不憫に思ったオレネイアがしばらく逗留を許したのだが、三月もすると言葉を覚えて、身の上を話すようになった。なんでも、祖国が滅んで一家離散したため、海を渡りオリエントからエウロパに入り、幻の島を目指していたが、嵐に遭って大西洋を漂う羽目になったのだという。


 博覧強記を地で行く人物で、その学識を買ってオルガの家庭教師として雇い入れた。東洋の燕国という聞いたこともない国の生れだと説明されたが、オルガには全く分からない話だ。


 曲来がいつ来たのかも分からないまま、オルガは小さく首を横に振る。


「そうか……」


 そう言ったまま、曲来はしばらく黙って庭を眺め、それから静かに口を開いた。


「涙は哀しみを和らげ、眠りに誘ってくれる」


 ゆっくりとオルガへ視線を向ける。


「泣けるときに泣いておけ」


 その声は穏やかだった。


「大人になれば、泣きたくとも泣けぬようになるのじゃからな」


 オルガは、その意味をまだ理解できなかった。 ただ、曲来の言葉だけは、不思議と心の奥へ静かに染みていく。そして、ぎこちなく頭を撫でる、節くれ立ったその掌の温かさに、ようやく涙が流れたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。