Ⅱ 届かぬ祈り
別宮の礼拝堂は、いつもより広かった。いつもなら誰かしら祈りを捧げており、様々な場所が花で飾られている。それが取り払われただけでこれだけ広く感じるのだろうか。
正面のステンドグラスの窓には青龍の紋章があり、外からの光で龍の影を大理石の床に落としていた。
深藍の天鵞絨が敷かれ、その中央にオレネイアの眠る柩が置かれている。柩の上には、黒い布が掛けられていた。母がいつも着ていた黒いドレスとは違う、冷たい黒だった。
アウラの隣にオルガは坐っている。喪章を胸に付け、純白のドレスを纏ってはいるが、全く生気が感じられないほど、青褪めた顔色だった。
オルトは乳母に抱かれたまま、眠っている。あの日から、よく眠るようになった気がした。何も知らずに眠っていられる弟が、少しだけ羨ましい。
ジュナは柩の脇に立っていた。泣き腫らした目は赤いのに、今は泣いてはいない。侍女頭の責務が彼女を動かしているのか、気丈な彼女らしくはあった。だが、母がいなくなったからこそ、ジュナは皆に指示を出さなければならない。花を置く場所、灯りを点す場所、誰が何をするのか——本来ならば執事の仕事であろうが姿は見えなかった。
——そっか。イオタロスはあのとき、一足先にダーナターラへ向かっていたのね。
今になって思えば、分かることではあるが、まだ幼かった自分では無理な話だ。まだ、この当時のオルガは六歳になったばかりである。
オルガは母がいないのに、どうしてジュナがそんなに動けるのか、不思議であった。ジュナにしてみれば、主の娘である幼いオルガに負担を掛けぬため、姫様は悲しみに浸るだけでいい——と、身を粉にして働いていただけに過ぎない。そんな配慮の中、オルガは母が居ない現実を受け止めきれず、自分が自分でなくなったように感じていた。
——悲しいのに涙が出ないなんて、私は冷たいの?
そのことが、オルガを苛んでいた。
だが、幼いオルガはまだ知らない。本当の深い悲しみは、心の整理がつくまで涙が流せないということを。それには時間が必要だ。
柩の周りには青い近衛騎士たちが彫像のように立っている。青い鎧が、礼拝堂の影と混ざって、部屋の昏さを深めていた。その端に黒い鎧の騎士が一人だけ混ざっている。
——あの人は……お母様の部屋付きの人?
確信はなかったが、なんとなくそんな気がした。
オルガの前には父王マクシミリアン・キース。その隣には、王妃セレステ・メアリー。そして、貴妃エレイン・ダイアナが坐っている。
セレステもエレインもオルガからは遠い女性だ。王妃は何度も会っているが、威圧的な態度が好きになれず、近づき難かった。エレインのことは嫌いではなかったが、こちらは静かすぎて、活潑なオルガはやはり敬遠している。その二人が流石にオルガを気遣っていた。
——まだ、幼すぎる。
それが二人の共通認識だが、その根柢にある想いは正反対だった。
セレステは既に、王太子アルファードの地位を脅かす存在として、オルガが生まれたときから敵視している。だが、敵として何をするにしても幼すぎて手を出せずにいた。
反対に、エレインは自身が子がないこともあって、貴妃として母親を失った後ろ盾のない少女を憐れんでいた。但し、彼女は正妃であるセレステを立てており、彼女と対立する道は避けており、オルガと関わっていない。
その二人が王家の淑女として、気遣いをせねばならぬほど、オルガの様子が可怪しかったのだ。
オルガにとって、それはとても長い時間だった。ようやく、司祭長が祭壇の前へ進む。青と白の法衣に赤い帽子を被った彼は、柩へ向けて静かに手を組んだ。
「おお、慈悲深き神々よ。ブルトンの守り神〈青き龍〉よ。此処に眠れしエーリウの女公、オレネイア・エイレ・エリュシオンの魂を――」
「嘘つき!」
オルガは、その声を知っている。その声を耳にした途端立ち上がり、声を荒げて糾弾した。突如、静寂を破ったオルガの声に、参列者が驚いて目を瞠る。
マクシミリアンは首を二回振って、セレステに耳打ちした。肯いたセレステは侍女を招き寄せて何事か伝えると、侍女は音もなく下がっていった。
——ラパステーは、いつも祈りを教えてくれたのに、酷いことを言ってしまったのね。
振り返ればそう思えるのは、オルガが少しだけ大きくなったからだ。もうすぐ十二歳となるオルガが、初めてラパステーと会ったのは、もっと幼い——オルトが生まれて歩きはじめた頃だった。
§
それは春の庭で、母が花を見ていた時。
オルガは初めて会ったラパステーと一緒に、花を摘んでいた。オレネイアに頼まれて、礼拝堂に飾る花を探しに庭へ来て、花を愛でるラパステーと出会った。
ラパステーは花を手折る度に、神々への感謝の祈りをする。オルガはそんなことをする大人に初めて会った。
「お祈りすると、願いは叶うの?」
ラパステーは、オルガの頭を撫ぜて「良い質問だね」と言って、少しだけ考えてから答えた。
「祈りは、願いを叶えるために有るのではないのです」
「じゃあ、何を祈ってるの?」
オルガが知る祈りとは、豊穣の願いや航海の無事の願い、船が沈まぬ願いなど、何かお願いをするときのものだ——というものでしかない。だが、ラパステーは違うと言った。
「神々へ感謝を伝えるためです。今、ここで、このように美しく咲く花と、出会わせてくださったことを、神に感謝しているのです」
「変なの。この花を植えたのはお母さまなのに?……よく分からない」
オルガには自分に何かをしてくれている訳でもない神々に感謝するということがよく分からなかった。花が咲いたのを感謝するなら、花を植えたオレネイアや、日々水遣りをしているジュナたちにではないのか。
けれど、ラパステーが祈る時の顔は、いつも穏やかで、すぐに好きになった。父が見せる穏やかな笑みとも違う。そう、祖父という存在が居たらこんな感じなのかも知れないと、オルガは感じた。
だから、オルガも一緒に祈った。
「お母さまが早く治りますように」
「きっと良くなります。姫様が沢山祈れば、いずれかの神が癒やしてくださるかもしれませんね」
「うん!」
ラパステーの見る限り、オレネイアの病状は深刻なものではなかった。だから、回復すると踏んで、オルガに気休めを言ったのである。
ラパステーの言葉に背を押されたオルガは、礼拝堂に足繁く通うようになった。以来、何度も、何度も祈りを捧げ、時には神々の話をせがんで遅くなる。そして、ジュナたちが探し回り、オレネイアに叱られる毎日だった。
祈りは夜、寝る前にも。朝、目が覚めた時にも。母の寝室へ行く前にも欠かさなかった。
§
それなのに、オレネイアは治らなかった。
「――安らかに、神々の御許へ」
「嘘つき!」
礼拝堂に、再度オルガの声が響いた。皆がオルガを視る。今度は、ラパステーも祈りを止めた。静寂が礼拝堂を包む。
アウラが息を呑んだ。ラパステーだけは、すぐには振り返らず、天を仰いだ。オルガの糾弾の理由を察していたのである。
「……嘘つき」
もう一度、今度は小さく呟いた。声が震えている。しかし、その瞳は真直ぐにラパステーを見据えていた。涙は零れそうな程なのに、溢れず頬を濡らさないでいる。
「祈っても、お母さまは治らなかったじゃない!」
オルガの感情が爆発し、ラパステーは、ようやく振り返る。その目は、いつものように静かな青色だった。何もかもをみすかすような、深い青の目である。
オルガはその静かな目が好きだった。けれど、今だけはどうしても好きになれない。自分のことを、何も分かっていないように見えた。
「どうして、教えてくれなかったの?」
ラパステーはじっとオルガを見る。
「祈っても、治らないことがあるって。願っても、届かないことがあるって——神さまはお母さまを治してくれないって!」
言葉にした途端、胸の奥にあったものが崩れ、涙があふれていく。そして、声が掠れ、声にならなくなった。
「お母……さまが……」
続きは言えなかった。死んだ——そう言えば、本当になってしまう気がしたからだ。アウラがオルガの肩を抱く。オルガは逃げるように、その胸へ顔を埋めて、声を圧し殺して泣いた。
礼拝堂にオルガの嗚咽が響く。母を失った娘を、誰も咎めようとはしなかった。しかし、ジュナは違う。ジュナはこの儀式の責任者であり、恙なく葬儀を終えねばならなかった。
けれど、オルガは泣き止まない。
ラパステーは、しばらくオルガを見ていたが、ジュナがオルガの下に行くのを見て、安心したように頷いて、オレネイアに向き直った。
そして、祈りを続ける。
オルガは、ジュナとアウラに連れられて、礼拝堂の外に向かいながら、その祈りが何のためのものなのか、誰のためのものなのか、分からなくなっていた。
ただ、母が二度と、自分の名前を呼んでくれないということに打ち拉がれていた。




