Ⅰ 母の死
フォードラという島がある。
北海に浮かぶ二つ島の姉島は、ケルト神話に登場する白霧の女神フォードラの名を冠し、古名では〈盟約の地〉、西方語では〈白霧の島〉と呼ばれていた。妹島は豊穣の女神エーリウの名を冠し、古名では〈神々の地〉西方語では〈豊穣の島〉と呼ばれる。
フォードラには四つの地域がある。東部ロゥグリア、西部カンブリア、中部カノヴェリア、北部スコティクだ。そこへブレイシュ半島に居住していたブルトン人が進出し、北部を除いて支配して王国を建てた。王都は建国王リオンドの名に肖って、リオンデールと名付けられる。
そのリオンデール王宮の離れにある別宮——通称・豊穣宮でオルガは暮らしていた。
その日、別宮は静かだった。
普段なら侍女たちの話し声や、オルトの駆け回る足音が聞こえるはずなのに、今日は誰もが声を潜めている。何故だろう、嫌な予感しかしなかった。
オレネイアが呼んでいるというので、アウラに連れられて大急ぎで来たのだ。
部屋付きの侍女が寝室の扉をそっと開いた。部屋の奥では、オレネイアが寝台に横たわっている。窓から差し込む冬の陽光が白い寝具を照らしていた。
「お母さま?」
呼びかけると、オレネイアはゆっくりと目を開いた。いつもの黒いドレスではなく、緩やかな介護のしやすい服装をしている。
「オルガ……来てくれたのですね」
病に臥して久しいが、その微笑みは変わらない。オルガは寝台の傍らへ歩み寄った。
「今日のお加減どう?」
「少しだけ良いわ」
弱々しい声だった。嘘だ。良い訳がない。顔色が悪すぎた。それでもオレネイアは笑っている。
無理をしている——と、少女にも分かるほど窶れていた。豪奢なベッドが、かえってオレネイアの具合の悪さを際立たせている。その所為で、オルガはリオンデールの豪華な調度品がすっかり嫌いになった。
ベッドの足元では幼い弟が舟の玩具を握りしめて遊んでいた。それはケルトの伝統的な皮張り舟を模した物で、木材の乏しいエーリウでは、古くから牛などの獣革を木枠に張った小舟が漁や移動に使われている。
「ふねー」
「オルト?」
まだ幼児のオルトは病というものを理解していない。ただ、母の傍が好きなだけだ。それでも幼心に感じることはあるのだろう、外で遊びたい盛りというのにオレネイアの許から離れようとはしない。
侍女頭のジュナは静かに寝台の脇に立ち、アウラはオルガの後ろに控えている。こういうときにブルトン王宮の侍女たちは物音一つ立てたりしなかった。それが、オルガには不思議だった。エーリウの家ならば、皆愉しくしているのに。
「ねぇ、オルト、静かにしてくれる?」
「ねぇね、ふねー!」
返事になっていなかった。オルトは舟に夢中で周囲など意に介さない。オレネイアが小さく笑った。つられてオルガも笑顔を見せる。
「元気で良いではありませんか」
「でも……」
「良いのです。私にとっては二人が元気でいてくれることが幸せなのですから」
その笑顔を見て、オルガは少し安心した。きっと治る。母はいつも強かった。だから今回も大丈夫だと、どこかで信じていた。
ふと、去年の春を思い出す。
別宮の庭に、花々が咲き誇っており、オレネイアはまだ病に臥せることもなく、オルトはまだ歩き始めたばかりだった。
「ほら、オルト。ゆっくり」
「だっ!」
転びそうになりながら駆ける弟を見て、オレネイアは楽しそうに笑っていた。オルガも屈託なく笑っている。
ジュナの用意してくれた、焼いた鳥肉を挟んだパンと白身魚の揚物を挟んだパンを平らげ、大きな布の上で寝転んで母と空を見た。
——揚げ根菜はないの?ってジュナを困らせたっけ。
スキレットはこの当時エウロパで食されていた「ニンジンとパースニップを掛け合わせ、ほんのり胡椒の風味を足したような味」と言われる食材で、芯があるため調理に手間が掛かる。少し甘いから、フライド・スキレットは好物であった。
「まだ、種を蒔いたばかりですよ。スキレットは寒くなったらね」
そう言ってオレネイアも笑ってくれた。ジュナはホッとした顔で胸を撫で下ろす。
アウラにわがままを言わないオルガだが、生まれたときから居るジュナには、母に言うのと同じぐらいにわがままを言っていた。諭すのはオレネイアの役目だ。
あの日の母は、元気だった。風に揺れる髪も、優しい声も、何一つ変わらず、ずっと自分に向けられるものだとオルガは疑いもしなかったのだ。
オレネイアが倒れたのはそれからしばらくして——夏至も過ぎた暑い日のことだった。
「何を考えているのです?」
母の声に現実へ引き戻される。
「別に」
元気だった頃の話はしない方が良いように思えたオルガは首を振った。
「嘘をおっしゃい」
オレネイアは穏やかに微笑んだ後、小さく咳き込む。
その笑顔が妙に愛おしく思えた。だが、続く咳の様子に胸の奥が少し苦しい。嫌な予感だった。
——ゴホッゴホッ。
咳が続く。寝室の外で慌ただしい足音が響いた。ジュナが振り返る。
——ゴホッゴホッゴホッゴホッ。
咳が止まない。扉が開き、もう一人の侍女が顔を覗かせた。真っ青に、血の気の引いた顔をした侍女が首を振る。その顔を見た瞬間、ジュナの表情が固まった。
「……失礼します」
ジュナは一礼し、侍女と共に部屋を出ていった。オルガはベッドによじ登り、しばらく母の背を擦る。咳が出なくなるように心の中で祈りながら。
しばらくして、戻ってきた時、ジュナの顔色も青ざめていた。堪えるように口を結んで、気を張った顔をしている。
「殿下」
震える声。オレネイアは静かに頷く。まるで全てを理解しているように。口に宛てた手巾が少し朱くなった気がした。
「オルガ」
「なぁに?」
「少しだけ外へ出ていてくれますか」
「え?」
「お願い……ね」
その声は優しかった。だが、どこか遠い。そして、続く咳。止まない。咄嗟に身を乗り出そうとしたオルガだったが、アウラが肩に手を置き、自分を抑えられた。
「さぁ、姫様」
「嫌よ……ここにいる」
オルガは首を振った。ここに居なければ、何か大切なものを失う気がしたからだ。
「姫様……」
「嫌!」
初めてアウラに声を荒げた。アウラはオルガと十歳ほど離れていたが、面倒見がよく、はじめから懐いたオルガはずっといて欲しくて、アウラにわがままを言ったことはない。そのオルガがわがままを言った。
頑ななジュナの目には涙が浮かんでいた。何か言えないことがあるんだ——とオルガは直感する。普段とは違うジュナにオルガは言葉を失った。
——何かがおかしい。
本当に、何かがおかしかった。
再びアウラに促され、渋々母の寝室を出た。オルトは乳母に抱き上げられて一緒に出てくる。母の傍から引き離されるのを嫌がるように、抱き上げられながらオレネイアに手を伸ばし、何も分からないまま、不満そうに足をばたつかせていた。
「少しっていつまで?」
少しではないほどの長い時間が過ぎていた。別宮は静まり返っている。その静寂がオルガの不安を掻き立てた。
薬師らしい老婆が連れて来られ、入っていてからでも一時ほど経っている。オルガは辛抱強い方だが、まだ幼すぎた。
オルトは乳母にあやされていつの間にか眠っている。オルガはオルトが少しだけ羨ましかった。
誰も喋らない。
誰も笑わない。
ただ重い沈黙だけが続いていた。向こうに黒い近衛騎士が立っている。
——もう、待てない。
オルガが決意してソファーを降りた。
その時、寝室の扉が開いた。ジュナが出てくる。その目は真っ赤だった。オルガはもぶりつくように、ジュナに駆け寄る。
「ジュナ」
侍女頭は答えない。ただ俯いたまま、オルガを抱き寄せた。
「お母さまは?」
ジュナの肩が震えた。そして、きつくオルガを抱き締める。泣いていた。気丈なジュナが泣いている。
「姫様……」
声は掠れていた。オルガはさっきから、過ぎる嫌な不安が少しずつ形を持って、自分に忍び寄って来るのを感じている。
「女公殿下が……」
そこで言葉が途切れる。涙が溢れた。ジュナは何度も息を整え、ようやく続けた。
「女公殿下が、お隠れになられました」
オルガは何も言えなかった。ただ寝室の開いた扉を見つめる。泣くことも出来なかった。声も、涙も出てくれない。
——お隠れになる……って、嘘よ!
心で叫んでいたが、口は開いては閉じて、声を発することはなかった。




