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第九話 王宮薬室の亡霊と媚薬と過ち

 それから二日後、私は静かな特別薬室で仕事をしていた。


 ここは危険な薬の調合の為に使われる部屋だ。窓もない部屋で、頼りになるのはランプの明かりだけ。

 

 私以外誰もいない静かな室内に、乾燥させた薬草をすり鉢で丁寧に砕いていく音だけが響いていた。


 ――ところが、その静寂を破るように扉が勢いよく開かれる。


「まあ……ここも薬室なの? 暗くて殺風景……まるで独房じゃない」


 入ってきたのは豪奢な衣装に身を包んだ数人の令嬢たちだった。


 その中心に悠然と立つ女性には見覚えがある。たしか……ベルルシアン公爵家の令嬢・マーガレット様だ。

 

 彼女は長らくローワン様の婚約者候補として、社交界で名を知られていた女性だったはず……。

 

 私はすぐに立ち上がり、丁寧に一礼した。


「申し訳ございません。薬室は関係者以外の立ち入りをご遠慮いただいております。こちらの部屋は特に危険な薬品もございますので、お引き取り願えますでしょうか」


 しかし令嬢たちは顔を見合わせ、くすくすと笑い出した。


「聞きました? 私たちを追い返そうですって」


「平民の薬師のくせに、随分と偉そうですこと」


「それにしても嫌な匂い。薬草と薬液が混ざって、鼻がおかしくなりそうですわ」


「殿下はこんな場所へ足しげく通われているのですか? 信じられませんわね」


 誰一人として退室する様子はない。


 むしろ興味本位で棚をのぞき込み、勝手に瓶の蓋を開け、乾燥した薬草を指先でつつき始めた。


「お、おやめください! それらは大切な薬材です……。扱いを誤れば、危険ですので──」


「危険?」


 マーガレット様が薄く笑う。


「こんな薬臭い部屋に閉じこもっているあなたのほうが、よほど危険では? どこからどう見ても不審者ですわよ」


 マーガレット様が薄い桃色の薬液の入った瓶を手に取り、光に透かした。それこそ、もっとも触れてほしくない薬――ノルヴァ先生から頼まれて作っていた軍用の、捕虜の尋問に使う媚薬だった。


 万が一彼女たちが被りでもすれば、大事件になる。


「まぁ綺麗な色ですこと」


「触らないでください!」


 慌てて手を伸ばす。

 

 ところがその瞬間、マーガレット様はあろうことか瓶の蓋を取った。


 ――パシャッ。


 冷たい液体が私の胸元から袖を濡らす。


 淡い薬液は王宮薬師の制服にしみこみ、独特の香りを漂わせた。


 青ざめる私を見て、笑い声が上がる。


「まあ、ごめんなさい……手が滑ってしまいました。ですがどうせ薬臭いのですもの、少しくらい増えても変わりませんわ」


 マーガレット様は濡れた私を見下ろし、満足そうに口元を歪めた。


「殿下のお気に入りと聞いて、どれほどの女性かと思えば……何の面白味もございませんね。殿下が飽きて、婚約破棄を申し出るのも時間の問題でしょう」


 その言葉だけを残し、令嬢たちは裾を翻して薬室を後にする。

 

 笑い声が遠ざかり、再び部屋に静寂が戻った。


 ――やられた。


 床に転がる媚薬の瓶は空になっている。


 小さく息を吐いて立ち上がり、令嬢たちが弄っていた棚に向かう。そこに解毒薬があったのだが……。


「……こぼれてる……」


 マーガレット様を止めようとしていた時、他の令嬢もいくつかの瓶を開けて倒していたらしい。媚薬と一緒に解毒薬を置いておいたのがいけなかった。


 新しく解毒薬を作り終える前に、媚薬の効果が出るだろう。

 

 媚薬といえば飲み薬だったが、捕虜の口をこじ開けるのも大変だろうと、過去に私が改良して肌に触れても嗅がせても効果が得られるようにしてあった。


 マーガレット様たちはすぐに退室したから問題ないだろうが……使い勝手を良くした過去の自分を恨みたくなる。


 しかしこの薬を開発したとき、すでに自然に媚薬が切れるにはどのくらいかかるか自分自身で実験済み。症状は時間が経てば治まる。だから誰にも会わず、自室で水風呂にでも浸かってじっと耐えればいい。 


 とりあえず肌から吸収される量を少しでも抑えるため、濡れた服を脱ぎ、制服を汚した時のために用意してあった予備の制服に着替える。


 布が肌を滑るだけでぞくっとして、吐いた息が熱くなった。

 

 今すぐ帰りたい。まずい。でも床を媚薬で濡らしたまま部屋に帰るわけにもいかない。媚薬はその香りだけでも効果がある。これ以上私のような被害者が増えたら大変だ。


 気難しい師匠から教わった薬草の名前とその効能を頭の中で唱えて気を紛らわし、床の掃除をする。


 それでもだんだん頭がボーっとしてきて、息が上がってきた。


 マーガレット様たちがいなくなった後、すぐに服を脱いで水を被るべきだったかもしれない……。

 

 でもそんなこと、今更後悔しても遅い。


 なんとか掃除を終えて作り途中の危険な薬をしまうと、私は宿舎に帰ろうとした。


 もうカーロ様に事情を説明する時間も惜しい。後で説明しよう……明日になるかもしれないけど。


 できるだけ誰にも会いたくなかった。

 

 媚薬にやられている姿なんて、誰にも見せたくない。なるべく人けのない通路を選んで、城内を進む。

 

 体に湧き上がる妙な衝動を、私は必死に理性で押さえつけていた。


 後は……この階段を下りれば、外に出られる……。


 そう思っていたのに。


 体は急に言うことを聞かなくなり、足が滑った。


「あ――」


 世界がぐらりと傾く。


 手すりを掴もうと伸ばした指先が空を切る。


 落ちる――。


 床にたたきつけられる衝撃に備えて、ぎゅっと目を閉じる。


 だが……衝撃は襲ってこない。


 ……代わりに感じたのは、よく知っている香りと温もり。


「嗅ぎなれない匂いがすると思ったら……どうしてキミが……」


 聞き慣れた低い声に、心臓が跳ねる。


 ローワン様……どうしてこんな時に。


「っ……申し訳ございません、は、離れてください……」


 情けない声が出た。受け止められただけなのに、体の奥が熱くなる。

 

 早く離れたい。離れてほしい。体がおかしくなりそうだ。


 けれどローワン様は眉をひそめたまま私を見つめていて、私から離れようとしない。


「この匂いは何だ?」


「説明してる暇は……ないので……。家に、帰らせて……ください」


「ひとりで立つこともままならないのに、どうやって家に帰るつもりだ?」


 厳しい口調だった。


 その後ろから現れたウェルドさんも、驚いた顔でこちらを見ている。


 最悪だ。こんな醜態、本当は誰にも見られたくなかったのに……。


「何があった? まずは説明しろ」


 逃げられそうにない。


 私は唇を噛んだ。


 本当は知られたくないけど……隠してもここに引き止められる時間が長くなるだけだろう。


「制作中の媚薬を……軍の拷問用の媚薬を、誤って被ってしまったんです……」


 空気が凍った気がした。ローワン様もウェルドさんも黙る。


 余計な騒ぎになると困るので、令嬢たちの嫌がらせの話は伏せておいた。


「…………解毒剤は?」


 ゾクッとするような低い声で問われた。

 

 恐る恐る視線を向けると、ローワン様が非常に険しい顔をしていた。怒っているようにも見える。


「げ、どくざいは……ちょうど、在庫を切らしていて……。でも、そのうち自然に効果は切れます……。この薬を開発したのは私ですから、よくわかってます……大丈夫です……」


 だから早く部屋に帰らせてほしい。


 今もどんどん効果が強くなって、ローワン様に触れられている部分を熱く感じて仕方ないのだ。

 

 理性が少しずつ削られていく。

 

 もっと触れられたいなんて、おかしなことを口走りそうで怖い。


「……私が部屋に連れていく。ウェルド、先の予定を何とかしておけ」


「……はい」


「いや、お構いなく……! 私は自分で……っ!」


 言い終える前に視界が揺れ、ふわりと体が持ち上がった。


「え……」


 思わず息を呑む。――抱き上げられた。

 

 密着した瞬間、頭が真っ白になる。

 

 その間にローワン様はすたすたと歩き始めた。……そっちは、城から出るドアのほうじゃないのに。


「ど……どこへ……」


「リザの家に行くより、私の部屋のほうが近い」


「で、殿下の部屋など……ダメです……っ」


「抵抗する力もないのによく言う……。そんな体で家に帰るのは危険だ。キミは自分がどんな顔をしてるか分かってないだろう」


 どんな顔をしているのか……聞くのも怖かった。

 

 熱い。苦しい。それなのに離れたくない。そんな矛盾した感情が胸の中で暴れている。

 

 絶対に……酷い顔をしているはずだ。


 ローワン様が私を抱えたまま部屋の前に現れたので、部屋の前にいた近衛兵が驚いて声を上げるのが聞こえた。


「で、殿下……そちらの方は……」


「婚約者のリザだ。早くドアを開けろ。そしてこの廊下一帯を封鎖し、おまえたちも離れていろ」


 扉が開くとローワン様はすぐに部屋に入り、私はベッドへ寝かされた。

 

 ようやくローワン様の体が離れる。なのに離れていく温もりに焦りが込み上げ、気づけば私は殿下の腕を掴んでいた。


「何だ? 心配するな……ひとりにはしない。ただ水を取りに行くだけだ。暑いだろう?」


 何のために掴んだのか、もう思い出せない。

 

 自分で薬の効果を実験していた時は、こんな気持ち、なかったのに。それはひとりだったから……?


 ただ、離れたくない。

 

「み、水は、いいですから……」


「……参ったな」


 困ったような声がぽつりと落ちてきて、ベッドが少し沈んだ。

 

 隣に寝ころんだローワン様が腕を伸ばし、優しく抱き寄せてくれる。

 

 その瞬間、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。


「も、もっと……ぎゅっとして……」


 言った瞬間に後悔した。

 

 何を言っているのだろう。恥ずかしい。

 

 けれど止められない。抱きしめてもらわないと、私が私でなくなってしまいそうで、怖くて堪らない。


「……こうか?」


「ん……もっと……ローワンさま……」


 腕の力が少し強くなる。


 安心する。温かい。苦しいはずなのに、少しだけ楽になった気がした。


「……抱きしめるだけでいいのか?」


「え……?」


 熱に浮かされた頭では、その言葉の意味をうまく理解できなかった。

 

 ただ、目の前のローワン様がひどく優しい顔をしていたことだけは分かる。

 

 普段は余裕たっぷりに笑っている人なのに、今は私を壊れ物でも扱うような目で見つめている。

 

 ゆっくりと殿下の指が、私の唇を辿った。


「リザ」


 低く呼ばれた名前に胸が震えた。

 

 指先の感触だけで、泣きそうになって息を吐く。


「大丈夫だ……私はここにいる」


 その言葉が不思議なくらい心に染みた。

 

 ローワン様が私を上から見下ろし、顔を近づけてくる。

 

 そっと額が触れ合う。近すぎる距離。心臓が暴れ出す。


 ……けれど嫌ではなかった。むしろ、その温もりに縋りたかった。


「怖がらなくていい」


 唇に、唇が触れた。


 重なるだけで、ぞくぞくしたものが背筋を走って体が跳ねそうになる。


 でもローワン様が一層強く抱きしめたから、逃げられない。

 

 酸素を求めて唇を開けば、もっと深く……私の中でくすぶる熱を奪おうとするかのように求められる。


 熱に溺れる。

 

 気づけば私はローワン様の服を必死で握りしめていた。

全31話です。続きます。

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