第六話 吸いたい皇子と吸われたくない亡霊
私が婚約を考え直すべきだって話題を出した途端、空気が変わった。
ローワン様は相変わらず穏やかに笑っているようだけど、さっきよりその笑みが曇った気がする。
「……婚約を考え直す? もしかして私からの贈り物が何か気に入らなかったか?」
「い、いいえ。そうではありません……ですが、贈り物も、もうやめていただきたいです。今までいただいたものも、すべてお返しします。私には、過ぎたものばかりですので」
「……本当に、私との婚約を破棄したいのか?」
「……できれば」
「酷いな……私はリザとの約束を守って王宮薬室にいられるようにしたのに、リザは約束を守ってくれないのか?」
ますますローワン様の表情が曇ってくる。視線が痛い。
気を悪くしてしまったことに焦って、私は必死で言葉を並べた。
「その……約束を私から反故にする気はないのですが、私が婚約者ではローワン様にご迷惑がかかると思いますので、一度考え直していただきたいのです。その際は、王宮薬室にいられるようにしてくださったお礼を、また別にさせていただきますので……」
「……なるほど? リザが私との婚約を破棄したいと考えているのではなく、あくまで私を心配してそう言ってくれたのか」
念を押されるような言葉に、思わず小さく頷くしかなかった。
ここで「いや、個人的に皇子殿下の婚約者なんて荷が重すぎるから婚約を破棄したいと考えていて……」なんて話をしたら、何か恐ろしいことが起こる予感が……。
「なら心配ない。私はリザと婚約できて心から嬉しいんだ。迷惑なんて思わない。このまま結婚して、結婚してからもずっと一緒にいよう」
雲に隠れた太陽が再び顔を出したかのように、またローワン様の笑顔が輝く。
私はその眩しさを直視できなくて、さりげなく視線を外した。
――いやいや、このまま結婚してずっと一緒にいるつもりなの? 正気……? そんなことをしてローワン様に何のメリットが?
ローワン様の真意が分からない。
また頭痛を感じて額を押さえていると、ローワン様が「リザ」と呼びかけてきた。
ローワン様が私のほうに両手を広げてくる。……まるで、「おいで」と言うかのように。
「……その手は、何でしょうか?」
「ん? おいでっていう意味だ」
……合っていた。合っていても嬉しくないけど。
「な……何をする気ですか?」
「そんなに警戒しないでくれ。抱きしめるだけだ」
「……遠慮します」
「婚約者なんだから、抱きしめるくらいいいだろう?」
両手を広げたまま、じりっとローワン様が近づいてくる。
私は距離を保とうと、ゆっくり後ずさった。
「節度ある交際を求めます……」
「節度って……抱かせてと言ってるわけでもないのに」
「だ、抱か……⁉」
あけすけな言葉に驚いて、反応が遅れた。
ローワン様はあっという間に私と距離を詰め、ぐっと抱き寄せて――。
「すぅ…………」
また…………匂いを嗅ぎだした。
「あぁ……いい匂いだ。リザを吸うと生き返る。もっといっぱいリザを吸いたい……ずっと吸ってたい……」
密着して固まった私の体を、ローワン様はさらにぎゅっと抱きしめてきた。
接触したところから伝わる熱に眩暈がして、くらくらしてくる。
いっぱいいっぱいで呼吸の仕方も思い出せない……。
「このままずっとリザを持ち歩いて、好きな時に吸えたらいいのに……って、リザ? 大丈夫か⁉」
「…………はぁ、はぁ」
放してもらって、ようやく息ができた。
危ない……窒息するかと思った。
しかしまたすぐに息が詰まる。
……ローワン様が、私を気遣って背中を撫で始めたのだ。
「息を止めていたのか? キスで息を止めてしまうのはまぁ分かるけど、抱きしめたくらいで息を止めることはないだろう」
「あ、あの……ローワン、さま……」
「ん? どうした?」
「……私に触るの、やめていただけませんか?」
「……え?」
精いっぱいの力をこめて真剣に頼むと、ローワン様の手がゆっくり背中から離れた。
やっぱり、言わなきゃこの御方には伝わらない。
ちゃんと言わなきゃ、何度もこの苦しい目に遭わされる。言わなきゃ――。
「……私、人に触られるのが苦手なんですっ!」
思い切って言い切った私を、ローワン様が静かに見つめてくる。
そして……。
「……どうして?」
「え?」
「何か事情があるのか? もしや……昔、誰かに触れられて嫌な思いをしたことが……? ……誰にやられた? 言ってごらん」
ローワン様の紫の瞳が、すっと冷たく光ったように見えた。
「私がその者を地の果てまで追い詰めて、生まれたことを後悔させてやるから」とでも言いそうな、どうにも穏やかじゃない空気だ。
「い、いえ……私に触るのなんてローワン様くらいで、特に誰かに嫌な思いをさせられたこともないのですが……ただ……人と距離が近くなると、すごく、緊張してしまうんです」
誰かが悪いわけじゃない。私は、そういう性分なのだ。
家族と触れ合うのは問題ない。でも、家族以外だと、極度の緊張で体が強張ってしまう。
よくよく考えれば、私が人と話すのが苦手なのも、相手との距離が近くなるからかもしれない。直接触れなくても、触れられる距離になれば緊張してしまう……。
でもこんな話、生まれつき社交性抜群のローワン様には分からないだろう。
生まれつき他人と関わり合うことが苦手な、私の生きづらさなんて……。
「過度に緊張してしまうから、人に触れられるのが苦手……か。……それは悪かった」
「……え?」
「ただ恥ずかしがってるだけだと思っていたが、違ったんだな。苦しめるつもりはなかったんだ。すまない」
「…………」
「リザ?」
「あ……いえ、その……分かっていただけると思わなくて」
「分かったとは言えないな。リザの苦労をすべて分かってあげることはできない。けど、想像はできる。そのような生きづらさを抱えた苦悩は、私にも分かるから」
――まさか謝ってくれた上に、自分の生きづらさに寄り添おうとしてもらえるとは思わなかった。
私の辛さを理解したと軽々しく言わないのも、かえって私の痛みに真剣に向き合ってくれている気がする。
その控えめな言葉だけで、胸の奥がぎゅっとなった。
でも、“そのような生きづらさを抱えた苦悩は、私にも分かるから”って……ローワン様も、何か生きづらさを感じているの……?
「なぁ、リザは今の自分を変えたいか?」
変えたい。もっと自然に、人と話せるようになりたい。
ずっと思っていたことだ。
「……そうですね。でも、なかなか、変えられないです」
「……思うに、リザが人に触られるのを苦手だと思うのは、親しく接してきた人が少ないことに原因があるんじゃないか」
「それは……」
確かにそうかもしれない。
うちは両親が早くに亡くなり、妹とともに祖父母に育てられた。祖父母の家は山間にあり、家族以外と交流する機会は少ない。家は貧しく、学校に行けなくて、同年代の友達もいなかった。読み書きや基本的な勉強や礼儀作法は祖父母に教えてもらえたけど。
そこでたまたま薬草を採りに来た師匠に出会い、弟子入りして王宮に来たら、どこを見ても人だらけですごく驚いたっけ……。
今では人の多さには少し慣れたけど、そもそも私は人と接してきた時間が他の人よりずっと少ないと思う。師匠も、無口な人だったし。
「変わりたいなら、私と人慣れするための練習をしよう」
「ローワン様と、練習……?」
「そう。私が近くにいることに慣れて、私に触れられることに慣れていけば、きっと他の人が近くにいても緊張しにくくなるだろう。毎日少しずつでいい。耐性をつけていくんだ」
「そ……そんな練習に、ローワン様をつき合わせるわけには……」
「問題ない。その代わり……練習の度に少しだけリザを吸わせてくれればいいから」
「あの……さっきからその、私を吸うって何なんですか?」
「あぁ、猫に顔を埋めて匂いを嗅ぐのを“猫を吸う”と言うだろう?」
そういえば妹からそんな言葉を聞いたことがある。
日向で寝ていた猫のお腹は特にいい匂いがするとかで、猫好きの妹はよく“猫を吸いたい”と言っていた。
「わ……私を吸うことに、何の意味が……?」
「癒やされるんだ。リザはいい匂いがするから」
「わ、私は香水も何もつけてないし、いい匂いなんてするはずが……」
「リザは香水なんてつけなくていい。香水をつけたら私が直々に湯に入れて洗おう」
「……ぜ、絶対に香水はつけません……」
真面目な顔で言われて一歩引いた。
「ならいい」と穏やかに微笑んだローワン様が顔を近づけてきて、また吸われるんだと思った私は反射的に身を縮めた。
思えば意を決して自分の苦手を伝えたのに、まんまと近づく理由を与えてしまった気がする。
ローワン様は私をいい匂いだと言うが、殿下こそ何やら優しく爽やかないい匂いがして……私は心の中で悲鳴を上げながら吸われることに耐えるのだった。
全31話です。続きます。




