第四話 救われて、追い詰められて
「いい朝だな……と言いたいところだったが、どうしてリザは、ベッテン王宮薬師長に殴られそうになっているんだ?」
私に殴りかかったベッテン様の拳を受け止めたまま、ローワン様が聞いてくる。
殿下の綺麗な笑みの中で、紫の瞳だけ鋭く光っているように見えた。
説明するように、と言われている気がする。
言ったら、ベッテン様を叱ってくれるのだろうか。
私を王宮薬室にいられるようにしてくれると言っていたけど、信じていいのだろうか。
頭の中がごちゃごちゃで、動けない。言葉が出てこないと、思っていたのに――。
「リザ。話して」
――優しい声に、自然と口が動いた。
「……ベッテン様は、“今度はその薬で、誰を殺すつもりだ?”と、言いました」
「お、おまえ……」
ベッテン様が焦る顔が見えた。
あぁやっぱりこの人は、他の人に聞かれるとまずいことを話していたんだな……と妙に冷静になる。
「“皇后陛下の母君の件は、どうにかして許されたようだが、今度おまえの薬で誰かが死んだら、もうおまえの薬のせいじゃないと信じてもらえるかな?”って、言われました。それから“悪いことは言わない。早く辞めてしまえ。王宮薬室の亡霊”……って言われて」
正確に。正確に。
言われた言葉を思い出してそのまま吐き出す。
「私が、本当に王宮薬室の亡霊だったら、あなたを呪って追い出せたのに……と言ってしまったら、ベッテン様が私に向かってきて……」
「きょ、虚言です! 私はそんなことを言っていません! この女は、私を嵌めようとしている!」
「虚言? ならなぜベッテン王宮薬師長は、リザを殴ろうと思ったんだ?」
「っ……!」
……見れば、ローワン様がベッテン様のこぶしを握る手に、力がこもっている。
相当強い力で握られているのか、ベッテン様の顔がさらに歪んだ。
「そ、それは……この女が、ぶ、無礼なことを言いまして……」
「か弱い女性に暴力を振る必要があるほど、言われて無礼なこととは何だ?」
「その……」
「……はっ、酷い顔だな、ベッテン王宮薬師長。顔に脂汗が浮かんでいる。言われてもいないことを急いで考えるのは大変だろう。無理をするな」
ローワン様が手を放すと、ベッテン様は崩れるように床に座り込んだ。
「そんな……本当に、私は……」
「虚言は聞きたくない。私は、リザを信じる」
凛と言い放ったローワン様に、私は目を奪われた。
胸のあたりがぎゅっとなって、不意に、泣きそうになる。
「王宮薬師長である私の言葉より、ただの平民女の言葉を信じると言うのですか⁉」
「リザはただの平民の女ではないだろう。前王宮薬師長・リシマ唯一の弟子であり、優秀な王宮薬師であり――私の可愛い婚約者だ」
「……は? 婚約者……?」
――なっ⁉
目に浮かんだ涙が、瞬時に引っ込んだ。
この御方は、ベッテン様の前でなんてことを言うのか。
「ち、違います!」
思わず否定の言葉を叫んでしまった。するとローワン様を見て拗ねたような顔をする。
「違わないだろう。まだ皆には報告できていないが、婚約証書はすでに父上……皇帝陛下に受理いただいた。キミはもう私の婚約者で間違いない」
「え……?」
――皇帝陛下にあの婚約証書が受理された? 早すぎない⁉
「リザ……いくらキミが恥ずかしがり屋だからと言って、婚約したことを否定するな。私が寂しくなるだろう」
ローワン様が私の手を取り、指先に「ちゅっ」と軽く音を立てて吸いついた。
急な出来事に、固まる。
指先に残るローワン様の柔らかい唇の感触。――キス、された。
「ひっ⁉」
ローワン様の行動から数秒遅れて悲鳴を上げ、取られた手を引っ込める。気づけば全身に鳥肌が立っていた。
呼吸をするように甘い言葉を囁き、瞬きをするように恋人のような戯れをする。なんて慣れているのだろうか……。
そのスマートさに心奪われる女性もいるだろうが、私は引いてしまった。
「ふ……ふざけるな! この女狂いの放蕩皇子め! そうか……あんたは女の言うことなら何でも信じるんだな⁉ さ、さては二人でグルだろう⁉ そこまでして私を陥れたいか⁉」
ローワン様が私の味方をするのが許せなかったのか、ベッテン様はついに殿下のことまで罵り始め、ギョッとした。
いくらローワン様が本当に女遊びの激しい放蕩皇子だとしても、本人に面と向かって「女狂い」なんて言ったら……。
「……自ら首を差し出すとは、殊勝なことだ。身柄を拘束せよ」
ローワン様の言葉で、王宮薬室に続々と兵士が入ってくる。先頭にいる見覚えのある大男は、側近のウェルドさんだ。
「皇族への侮辱罪だ。抵抗するな」
「ま、待て! 今のは、違う! 違うんだ!」
自分のしでかしたことに気づいたのかベッテン様は慌てていたが、ウェルドさんは手際よく彼を拘束する。半泣きで喚き散らすベッテン様に向かって、ローワン様は綺麗に微笑みながら言った。
「貴様は私の正式な婚約者であるリザ・ステイルに対し、度重なる暴言と侮辱を行い、事実無根の悪評を流してその名誉を著しく傷つけ、王宮薬室から不当な追放を行おうとしたな?」
ベッテン様がギクリとして動きを止めた。ローワン様が続ける。
「さらに先ほど、リザを殺人犯に仕立てようとする発言をし、リザに暴行を加えようとした。未遂に終わったとはいえ、その悪意は明白。さらに己の犯した行為を隠ぺいするため、虚偽の証言を行い私を欺こうとした。――貴様の罪は決して軽くない。正式な沙汰があるまで、牢で反省していろ」
顔面蒼白で絶望しているベッテン様が、兵士たちに引っ張られて王宮薬室から出ていく。
廊下からは王宮薬室に入るタイミングがつかめなくて困っていた王宮薬師たちが、捕まったベッテン様を見てざわめくのが聞こえてきた。
――私を追放しようとしていたベッテン様が、捕まった。それはつまり……。
「リザ、これでもうキミを王宮薬室から追い出そうとする者はいない。安心していいぞ」
ベッテン様を追い詰めていたときの圧のある微笑みとは違う、ふわっとした柔らかい微笑み。
張りつめていた空気が、一瞬で変わった。
ほっとして、肩の力が抜ける。
ローワン様に助けられたんだ。
私はまだ、王宮薬室にいられる……。
「……ありがとう、ございます」
「このくらい容易いものだ」
私に向けられる優しい眼差し。
ローワン様は……もしかしたらただの放蕩者でもなくて、いいところもあるのかもしれない……。
「……お取り込み中失礼いたします。殿下、証言の記録はどうしますか?」
そのとき、部屋に残っていたウェルドさんが黒い小さな手帳を取り出して言った。
「証拠として提出してくれ」
「かしこまりました」
「あの……証言の記録とは?」
私が聞くと、ウェルドさんが「先ほどの会話をすべて書き記してあります」とこともなげに答えた。
「そ、それって……私の言葉もですか? え? いつから……」
「はい。ベッテン氏が王宮薬室に入った後からすべて」
――知らぬ間に記録されていたなんて恥ずかしい……。
……って、今、ウェルドさんは何と言った?
“ベッテン氏が王宮薬室に入った後からすべて”と言わなかった?
ぎこちなく視線を向けると、ローワン様が「ん?」と少し首を傾げた。
「ローワン様は最初から……私がベッテン様に言われたことを、ぜんぶ聞いていたんですね……? でもベッテン様は会話を聞かれていないと思ったから、隠そうとしたり、言い訳をしたり必死でした。最初から聞いていたと言えば、あんな風にカッとなって、さらに墓穴を掘るような真似しなかったのかなと……考えてしまって……」
「罪状は多いほうが、たくさん後悔できるだろう?」
「え……?」
それはまるで……あえてベッテン様を煽り、罪状を増やしたように聞こえた。
まさかあんなところで私の指にキスをしたのも、ベッテン様を激昂させてわざと自分を罵らせ、不敬罪で言い逃れができないところまで追い詰めるため……?
「……私の可愛い婚約者を傷つけようとしたんだ。当然の報いだろう」
少し屈んで私の耳元に顔を近づけたローワン様が囁く。
この御方は……蜂蜜のように甘い顔をして、用意周到な狩人のような一面を持っているようだ。
不真面目、遊び人などと評される声しか聞かないが、もしかしたらとんでもない策士なのでは?
「……改めて、おはよう、リザ。……今日もいい匂いだね」
「っ⁉」
反射的にローワン様から離れようと後ずさると、ローワン様は口元を手で押さえて「俊敏だな……」と肩を震わせ、ウェルドさんは何も見てませんと言うようにクルッと背中を向けた。
私は香水も何もつけていないのに、何の匂いがするというの⁉
薬草ばっかり触っているから「薬臭い」と言われたことはあるけど、いい匂いなんて言われたことはなかったのに。
……忘れちゃいけない。この人は策士である前に……変態だった。
――そしてこの事件により、廊下にいた王宮薬師たち……それから王宮内のあらゆる人たちに“ローワン皇子殿下が王宮薬室の亡霊と婚約した”という話が広まり、私も後に引けぬ状況に追い詰められたのだった。
全31話です。続きます。




