第三話 王宮薬室の亡霊のピンチ
――ローワン様と婚約してしまった。
私がサインした婚約証書を持って、悪魔のように笑っていたローワン様の顔が頭から離れない。
唐突に私の匂いを嗅ぐという奇行に走った当人は、あの後、「もう用は済んだから王宮薬室に戻っていい」と言ってにこやかに私を部屋から出した。
それから私は震える足でなんとか王宮薬室に戻ったが、混乱していたせいか酷い頭痛に襲われて早退させてもらった。
自分で作った頭痛薬を飲み、ひたすら寝た。
一晩寝たら、全部夢だったことにならないかなと淡い期待をしつつ……。
「――リザ、昨日はどうしたんだい? 薬を頼みに来たら、君は早退したと聞いて心配したんだよ」
翌朝。王宮薬師の制服を着て王宮薬室に行くと、すぐに王宮医術師のノルヴァ先生に声をかけられた。眼鏡をかけた長身の先生は、私の近くに来ると話しやすくするために少し屈んでくれる。
表情が乏しくて顔が怖いと言われがちな私を見て、いつも柔らかく微笑んでくれるのはノルヴァ先生くらいだ。私もこのくらい微笑めたらいいのにと思っても、私の表情筋は「そんな機能は備わっていない」とばかりに動かない。
「……申し訳ございません、ノルヴァ先生。少々体調が優れず、早退させていただいておりました」
「今は大丈夫なのかい?」
「はい。薬を飲んで寝たら、良くなりました」
「良かった……じゃあさっそく、仕事を頼んでいいかな?」
「分かりました」
ノルヴァ先生は師匠が亡くなる前から、私を信頼してよく仕事を任せてくれていた。ベッテン様によって悪評が広められてからも、ずっと私に薬を頼んでくれる唯一の人。
私より15歳くらい年上の男性だけど、師匠がいない今、王宮内で私が最も話しやすい人である。といっても、仕事の話ぐらいしかしないのだけど。
「あぁリザが元気になって良かった……。リシマ殿がいない今、僕が製薬を頼めるのはリザだけなんだ。他の王宮薬師は……こういうのもなんだが、ちょっと雑なんだよなぁ。正確に作ってくれるのはリザだけだから、リザがいなくなったらと思うと……あぁ、胃が……」
「……また、胃薬をお持ちしましょうか?」
「いや、大丈夫……前にもらったのが、まだあるから……ははは」
ノルヴァ先生は心配症だ。優秀な医術師なのだが、自信がなくていつも「失敗したらどうしよう」と怯えている。そのせいで胃が痛むようだから、私がたまに胃薬を作ってあげていた。
ノルヴァ先生のためにも、私は王宮薬師を続けたいと思うけど……。
「……ねぇ、リザ」
「はい?」
「昨日……ローワン皇子に呼び出されてなかった?」
――ガタッ。
「え? 大丈夫⁉」
「だ……大丈夫です」
危なかった。
ノルヴァ先生の口からローワン様のお名前が出た瞬間、持っていた薬草の瓶を落としそうになってしまった。何とか落とす前に掴みなおしたけど、思いっきり机にぶつけた肘が痛む。
「ローワン皇子と何かあったの?」
『私の婚約者になれ』と笑うローワン様。
いきなり近づいてきたかと思えば、私の肩口で思いっきり匂いを嗅いできたローワン様。
婚約を破棄すれば、王宮薬室にいられなくすると脅してきた悪魔のようなローワン様。
まったく……顔のいい男なら何をしてもいいと思っているのだろうか。
いや、実際、何をしても顔がいいから許されてきたのか……?
昨日の悪夢のような出来事を思い出して、また頭が痛む。が、ノルヴァ先生に心配をかけたくないので平静を装って答えた。
「……いえ、何も……」
「そう? あ、詳しくは聞かないよ。守秘義務があるだろうから」
ノルヴァ先生はおそらく、私がローワン様に何か薬を求められたと思ったんだろう。ローワン様が個人的に求めてきた薬に関しては、深く聞かない。きちんとした人だ。
……実際、薬は求められていないのだが。
「王宮薬室を辞めろって話じゃないならいいんだ。リザにはまだ、王宮薬室にいてほしい。僕もなんとかリザが辞めないでいられるように、周りの医術師を説得してるところなんだけど……僕に確実にリザを守る力がなくてごめんね」
「ノルヴァ先生は、皇后陛下の母君がお亡くなりになったとき、私の作った薬のせいでないと皇帝陛下皇后陛下にご説明くださいました。私はおかげで救われましたので、先生にはとても感謝しております。どうか私が王宮薬室を離れることになっても、気に病まないでください」
「……僕も最後まで何とかなるように頑張るから。……じゃあ、薬ができたら持ってきてくれる?」
「承知いたしました」
話が終わると、ノルヴァ先生は王宮薬室を出ていった。
一人になった王宮薬室で、私は頼まれた薬作りに取り掛かる。まだ朝早いから一人だが、そろそろ他の王宮薬師たちもやってくる時間だ。人が増えて騒がしくなる前に、ある程度進めておきたい。
集中しよう。そうすれば昨日のあれこれも早く忘れられる。
正確に。正確に。
丁寧に乾燥させた薬草をすりつぶし、ぴったりの量になるように測っていく。
――私の弟子を名乗るなら、一切の妥協は許さん。ほんの僅かな誤差も出すな。結果が出れば過程はどうでもいいなどありえない。過程の乱れは、いずれ必ず結果を腐らせる。完璧を求めろ。慢心するな。さもなくば今すぐ追い出す。
何度も聞いたから、いつでも思い出せる師匠の声。
厳格で、冷徹な職人のような人だった。
もうここにいなくても、見られていなくても、師匠の教えは体に染み付いている――。
――バンッ。
「――なんだ、まだいたのか。王宮薬室の亡霊よ」
突然、机に大きな音を立てて手を突かれ、嫌味たらしく吐き捨てられた。
乱暴に手を突いた振動で机の上にあった小瓶が倒れ、風圧で測り途中の粉末が飛んでしまった……せっかくあと少しで完成だったのに、測り直しだ。
「……おはようございます、ベッテン様」
すべてを台無しにされた怒りを押し殺し、挨拶する。
気持ちを落ち着けようと息を吸うと、鼻につんと来るものが薫ってきて思わず息を止めた。……最近、帝国で流行りの香水だ。ベッテン様がつけているものだろう。
師匠がいるときはつけていなかったが、王宮薬師長になった途端につけ始めた。こんなものをつけたら薬草の繊細な匂いの変化にも気づけないのに……。
「はぁ……朝からおまえの無愛想でつまらん顔を見ると、気分が悪くなる。なぜまだ辞めない? ここにおまえの居場所などないぞ」
ベッテン様は無駄に大きな声で言いながら私の背後を歩き、自分専用の机の上に置かれていた手紙を開け始めた。
彼と距離があるうちに、机の上のまだ使える材料を確保し、使えなくなったものは破棄する。
……悔しいけれど、中途半端な薬は使えない。
「なぁ王宮薬室の亡霊……今度はその薬で、誰を殺すつもりだ?」
「は……?」
とんでもない発言に驚いて振り向くと、ベッテン様は気持ち悪い顔でニヤニヤと笑っていた。
「皇后陛下の母君の件は、どうにかして許されたようだがなぁ……今度おまえの薬で誰かが死んだら、もうおまえの薬のせいじゃないと信じてもらえるかな?」
ぞわっと背筋が冷たくなる。
きっと冗談だろう。私を嫌がらせるための、たちの悪い冗談。
でも冗談でも言っていいことと悪いことがある。酷い嫌悪感がした。
私がどれだけ正確に薬を作っても、ベッテン様が隠れて手を加えてしまえば……。そんなことを想像してしまい、吐き気と怒りがこみ上げる。
人の命を危険に晒してまで、この人が私を貶めようとすることがないと願いたい。
でもこの人ならそれをやるかもしれない。
「悪いことは言わない。早く辞めてしまえ。王宮薬室の亡霊」
私はただ薬を作っているだけなのに、なぜここまで言われて、辞めさせられなきゃいけないのか。今まで師匠が築いてきた王宮薬室の信頼を挫こうとしているのは、私ではなくこの人じゃないのか。
追い出せるなら、私はこの人を追い出したい。
――私が本当に王宮薬室の亡霊だったら、あなたを呪って追い出せたのに。
「……今、何と言った?」
「え?」
真っ赤な顔を歪めて私を睨み付けたベッテン様が近づいてくる。
「――私が本当に王宮薬室の亡霊だったら、あなたを呪って追い出せたのに……だと? おまえ……俺を追い出したいのか? あぁ?」
――嘘。さっき考えていたこと、口から出てた……⁉
ベッテン様の手が伸びてきて、ぎゅっと身を縮めて目を閉じる。
殴られると思った。
でも……数秒経っても、何の衝撃も襲ってこない。
「な……なぜ……こちらに……?」
ベッテン様の狼狽えた声が聞こえて、怖々と目を開く。
焦った顔のベッテン様。私を殴ろうとしていたであろう手は、他の誰かの手に受け止められていた。その誰かとは――。
「……ローワン、様……?」
「やぁ、リザ。おはよう」
私の名前を親し気に呼び、ローワン様が非の打ち所がない笑みを向けてきた。
全31話です。続きます。




