市場の真ん中の店
領地公証官としての仕事は、意外なところから始まった。
分室を開いて三日目。私が水路の新しい契約書の控えを綴じていると、扉が開いて、行商人らしい男が恐る恐る顔を出した。
「先生、こんな小さなことも、お願いできるんでしょうか。隣村の鍛冶屋との、鉄の買い付けの約束なんですが。口約束だと、後で言った言わないになりまして」
(公証というのは、大きな係争のためだけにあるのではない。揉める前に紙にする。その当たり前が、この領にはなかったのだ)
その日のうちに、来客は四件になった。パン屋の借用証書、馬の売買の立会い。それから、夫を亡くしたばかりの織り手の未亡人が、震える手で古い束を差し出した。
「主人の残した借りの証文なんです。相手の旦那は『口約束でもっと貸した』と言って、畑まで取ろうとするんです。……私、字が読めなくて」
証文を読めば、借りた額も返済の済んだ印も、はっきり書かれている。相手の言い分は、記録の前では通らない。私は証文の写しを取り、内容を一文ずつ読み上げて、彼女の分室の控えを渡した。
「これを持って帰ってください。次に相手が来たら、この写しを見せて、それでも引かなければ私のところへ連れてくるようにと」
未亡人は何度も頭を下げて帰っていった。帰り際の顔は、来た時とは別人だった。
(たった一枚の写しが、人の暮らしの盾になる。――王都では当たり前だったことが、この領では、まだ宝物なのだ)
ハンナが受理簿に次々と書き込み、ペーターが金額の検算をする。分室の小さな机は、あっという間に書類で埋まった。
「先生、すごいです。昨日まで、こんなに人が来る部屋じゃなかったのに」
「水路の件で、少しは信用してもらえたのかもしれないわね」
(信用。……七年間、王都で積んできたはずのものが、国をまたいだ先で、こうして目に見える形になるなんて)
四日目の朝、その賑わいを割るように、扉が荒々しく開いた。
入ってきたのは、立派な体躯の老人だった。六十代半ば。仕立てのいい上着の胸に、織物商のギルド章。後ろには、店の者らしい男が木箱を抱えている。
「領地公証官殿にお願いがあって参った。市場の真ん中の区画で代々店を張る、フォーゲル織物店のヘルマン・フォーゲルです」
木箱から取り出されたのは、丁寧に畳まれた一枚の許可証だった。黄ばんだ紙、古い様式。先々代の領主の名と印がある。
「六十二年前、先々代様から賜った営業許可証です。市場の中央区画における織物の営業は、当家に許されたもの。ところが先月から、王都帰りの新参者が、断りもなく真隣に店を出し、織物を売っているのです。あれは当家の権利の侵害です。即刻、退去させるよう取り計らっていただきたい」
ほどなく、もう一人の当事者も分室に現れた。リーザ・ファルク。三十手前の、目の据わった女性商人だった。
「退去なんて、聞けません。私は市場の世話人のディートリヒさんに場所代を払って、空いていた区画を借りたんです。織物を売ってはいけないなんて、一言も聞いていません」
「空いていた、だと。あの区画は代々――」
「代々、と言いますが、区画の半分は物置同然で、布一反、並んでいませんでした」
「貴様、王都の流行り物を並べれば客が来るとでも思っているのか。市場の格というものを――」
「格で飯は食えません。それに、私の綿は領の織り手さんたちにも卸してるんです。安くて丈夫な綿が入れば、機を織る家が助かるって、皆が言ってます」
二人の声が重なりかけたところで、私は許可証の入っていた木箱の蓋を、ことりと閉じた。小さな音だったが、二人とも口を止めた。
(窓口は、順番だ。順番さえ決めれば、人は話を聞く)
「お二人とも、言い分は記録します。ただし今日ここで決着はつけません。権利の有無は、感情ではなく書類で決めるものですから」
(始まった。言った言わないの応酬だ。……でも今日は、二人とも目の前にいる。材料も、ある)
私は許可証を受け取り、いつもの順番で目を通した。発行の日付は六十二年前、発行者は先々代領主。様式は旧々様式で、これは本物だ。領主の印影にも、欠けや改竄の跡はない。区画の指定も、「市場中央、時計塔下」とはっきり読める。
だが、営業の種目を記す欄で、私の指が止まった。
そこには確かに文字があったはずなのだが、肝心の部分が、虫食いとインクの滲みで判読できない。残っているのは「――織物」の二文字だけだった。
「フォーゲル様。この許可証で許された営業の種目、正確には何と書かれていたか、ご存じですか」
「決まっておる。織物全般だ。だからこそ六十年、市場で織物を売るのは当家だけだった」
「ではリーザさん、あなたの扱う品は」
「綿織物です。それに麻と、王都から仕入れた色糸。絹は扱いません。……絹は、高くて手が出ないだけですけど」
(綿と、絹。――もし、この許可証の種目が最初から「絹織物」だったとしたら)
私は表情に出さないよう、許可証をそっと畳んだ。
「お二人とも、今日のところは、この許可証の文言だけでは判断できません。種目の欄が、判読できないのです」
「なんだと」
「許可証が発行された当時、領では許可の原簿――登録の台帳が作られていたはずです。公館の文書庫か、市場の帳場に残っているでしょう。それと照合して、種目の範囲を確定します。それまでは、現状のまま営業を続けてください。退去も、妨害も、なしです」
フォーゲルは不満そうに、それでも許可証を私に預けて帰っていった。扉が閉まる間際、老店主の背中が、来た時より少し小さく見えた。
(あの人は、権利を振りかざしたいのではない。六十年続いた店が、自分の代で終わるのが怖いのだ。……たぶん)
残ったリーザが、帰り際にぽつりと言った。
「先生、私、場所代の領収証もないんです。ディートリヒさんの私印だけの覚え書きで。あんなので、本当に店を続けられるんでしょうか」
「だからこそ、調べるのです。――ハンナ、市場の世話人のところへ。ペーターは私と文書庫へ。許可の原簿を探します」
窓の外、昼の市場の賑わいが聞こえる。六十年物の許可証と、判読できない一文字。次の係争は、水路よりずっと小さな――けれど、この領の商い全体の足元に関わる一件になりそうだった。




