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消えた一文字

 許可の原簿は、意外なほどあっさり見つかった。


 功労者はペーターだった。文書庫の山を前に、私が様式の古さで当たりを付け、彼が帳簿の背に残る番号を追った。元税務役人の目は、数字の並びの不自然さを見逃さない。


「先生、この台帳です。許可証の番号が、こちらの索引と符合します」


 市場許可原簿。六十年前から四十年ほど、市場の区画と営業種目が、几帳面な字で記録されていた。その一頁に、フォーゲル家の名があった。


 ――区画:市場中央、時計塔下。種目:絹織物。条件:家督相続の節は、一月以内に再登録を行うべし。


(絹織物。やはり、あの消えた一文字は「絹」だった)


 試しに前後の頁も確かめた。鍛冶屋は三代にわたって更新が記録され、宿屋は区画の変更まで丁寧に書き込まれている。この原簿は、四十年ほど前まで、確かに生きて使われていたのだ。それがいつしか、誰も開かない帳面になった。そしてフォーゲルの欄も、その流れの中で止まっていた。


 だが、私は帳面を閉じる手が止まった。再登録の条項である。原簿の続きを見れば、代替わりのたびに登録を更新した店の名が並んでいる。けれどフォーゲル家の欄には、初代の登録以来、二代目、三代目への更新の記録が、どこにもなかった。


「二十二年前、二代目が店を継いだ時に、再登録がされていない……」

「規則どおりなら、今のフォーゲル家の営業は、無許可ということになりますね」


 ペーターの声は事務的だった。事務的であるほど、その事実は重かった。


(この一行を公にすれば、老舗は潰れる。相手を潰す決着は、簡単だ。――でも、それが私の仕事の仕方ではない)


 念のため、許可証の発行年の頁も遡って確かめた。当時の市場は出店が十一軒。絹を扱えるのは、王都から織元を招いて店を開いたフォーゲル家だけだった、と付記がある。つまりこの許可は、独占を与えるためのものではなく、「絹という特殊な品を扱える店が領に生まれた」ことを認めるためのものだったのだ。六十年の歳月が、認可をいつの間にか独占の根拠に変えてしまったのである。


(制度は、使われなければ化石になる。そして化石は、時として人を殴る石になる)


 その日、私は市場の聞き取りに回った。ハンナが先に評判を集めてきてくれる。


「先生、市場のみんな、先生のことを『堰の先生』って呼んでますよ。それと、フォーゲルさんの店のこと……絹の注文、この数年でめっきり減ったそうです。王都の流行が変わって、儀礼用の絹を買う家が減ったとか。職人さんへの支払いも、遅れがちだって」


 パン屋の主人は、もっと直接的なことを言った。


「フォーゲルさんのとこ、跡取りの若旦那が三年前に王都へ出ちまったんだ。『絹なんか、もう売れねえ』ってな。……あの店主、店を守るってより、息子に『ほら、まだやれる』って見せたいんじゃねえかな」


(だから、あれほど必死だったのだ。綿織物の新参者は、彼の目には、店の最後の縄を断ちに来た相手に見えたのだろう。権利の話に見えて、実は、親の意地の話でもあったのだ)


 市場の片隅では、別の光景も見た。私が歩くと、出店の商人たちが次々に声をかけてくる。


「先生、この間の借用証書、おかげで隣村と話がつきました」

「今度、息子に店を継がせるんです。その時は、先生に書類をお願いできますか」


(継がせる。その時に、記録が要る。――分かった。この市場の誰もが、実は「紙」を欲しがっていたのだ。代々の言い伝えと口約束に、もう限界が来ている)


 帰り道、市場の世話人のディートリヒが私を呼び止めた。リーザに場所を貸した、あの老人である。


「先生、俺の覚え書きのせいで揉めたなら、俺の落ち度だ。……だがな、昔はみんな、顔を見て場所を貸し借りしてきたんだ。紙なんかなくても、市場は回ってた」

「回っていましたね。でも、代替わりや新しく来る人が増えれば、顔の記憶だけでは回らなくなります。あなたの代までは良くても、次の世話人さんは困りますよ」

「……ふん。次の世話人、か」


 老人は市場の賑わいを眺めて、それ以上は何も言わなかった。けれど、その背中は怒ってはいなかった。


 夕方、分室に戻ると、公爵が窓際で受理簿を眺めていた。


「盛況だな」

「おかげさまで。……閣下、市場の営業について、領の制度を一つ、提案させていただけますか」

「聞こう」

「営業の登録制度です。今の市場は、許可証のあるフォーゲル家でさえ更新を欠いたまま、他の店は口約束の場所代だけで営業しています。全員を新しい登録簿に記録し直す。区画、種目、相続の手続きを明文化する。そうすれば、今回のような争いは、二度と起きません」


 公爵はしばらく黙り、それから言った。


「フォーゲル家はどうなる。その制度では、老舗は無許可営業の咎を受けるのか」

「受けさせません。それが、私の条件です」


(責任は私が持つ、とこの人は言った。ならば私は、その責任の使い方まで含めて、仕事をする)


 私は提案の骨子を、夜のうちに書き上げた。登録は罰ではなく、これからの営業を守るためのものとすること。長年の営業実績のある店には、その区画の優先権を記録して保障すること。フォーゲル家には、絹織物の種目で再登録を認め、市場の登録第一号として遇すること。


 ハンナが、冷めたお茶を新しいものに替えてくれた。


「先生、フォーゲルさんを罰しない制度なんて、王都の局の人たちが聞いたら、甘いって言いそうです」

「甘いのではないわ。罰して店が消えれば、市場に穴が開く。穴を埋めるのは、結局この領の人たちなの。――正しさは、誰のためにあるのかを、間違えてはいけないのよ」


 書き終えて、壊れ――いえ、直してもらった印ケースに手を置いた。留め金は、かちりと閉まっている。


(明日、まずフォーゲル様にだけ、事実を全部話す。公にする前に、本人の口から「それでも店を続けたい」と聞くために)


 人は、記録で追い詰めることもできれば、記録で立たせ直すこともできる。私は後者のために、この領に来たのだから。

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