領地公証官セリナ
調停の翌日から、私は分室になるはずの部屋の掃除と書棚の整理に取りかかった。空っぽの書棚のいちばん良い場所に、王都から抱えてきた三冊の綴りを置く。「紙くず」と呼ばれたこの三冊が、新しい職場で最初に並ぶ本になった。
(ここから始める。ここが、私の机だ)
水路の調停から三日後、公館の応接間で、私の正式な雇用契約が結ばれた。
立会人は家令のグレゴールと、領都の役人二人。契約書は公爵自らが用意したものだったが、署名の前に、私はいつもの癖で最初から最後まで三度読んだ。俸給、住居、書記二名の配属、領内の契約記録はすべて私の管理下に置くこと、領主といえども記録を勝手に持ち出せないこと――王都で提示された条件が、一つも欠けずに書かれている。
一箇所だけ、書き方を直してもらった。印章の保管についての条文が曖昧だったのだ。
「ここの『適切に管理する』は、『公証局分室の金庫に保管し、出し入れを台帳に記す』に変えてください。曖昧な言葉は、後の係争の種になります」
「……雇用初日から、領主への注文が多いな」
「読んで、間違いがあれば突き返す人間が欲しいと、閣下がおっしゃいました」
公爵は苦笑し、その場で書き直させた。横で聞いていたグレゴールが、咳払いをする。
「……アーレン様は、ご自分の雇い主の契約書にも、そのように」
「はい。雇い主の書類こそ、後で揉めないようにしておくべきです」
「なるほど。では私も、館の帳面を後ほどお持ちしましょう。先代の頃の付け方が、私もずっと気になっておりましてな」
(家令が、自分から帳面を預けてくれる。それが、この館での私の最初の「信用」だった)
ペンを取る手は、震えなかった。伯爵邸で婚約解消の確認書に署名した時と、同じ手だ。あの日は終わらせるための署名だった。今日の署名は、始めるためのものだ。
そして私の署名と公証印をもって、契約は成立した。今日から私は、ヴァルデン領の領地公証官である。
「これを、返しておく」
式の後、公爵が小さな包みを差し出した。開けて、息を呑んだ。私の木製の印ケースだった。緩んでいた留め金が、丁寧に直されている。銀細工の新しい金具は、元の木目に違和感なく馴染んでいた。
それだけではなかった。擦り切れていた留め紐も、新しいものに替えられている。派手さはないが、職人の手の跡が残る丁寧な仕事だった。私が七年使ってきたこのケースの傷を、一つずつ見て直した人の手つきが、目に浮かぶようだった。
「領都の銀細工師に直させた。領地公証官の印が、勝手に開くようでは困る」
「い、いつの間に……」
「王都で預かった。帰りの馬車でも、開いていたからな」
(預かった、ではない。私が落としそうになるたび、見ていたのだ、この人は)
礼を言う声が、小さくなった。公爵はそれ以上何も言わず、「分室を見ていけ」とだけ言って先に立った。
公証局分室は、公館の東棟の一角だった。新しい机、空の書棚、そして扉には真新しい銘板――『領地公証局分室』。窓からは領都の市場が見えた。正式な契約書がない土地とは商人が取引したがらないと、公爵は言っていた。けれど市場の賑わいは、それなりにある。ここに「記録」という当たり前を持ち込む仕事は、十七件の係争の、まだ一件目が終わったところだ。
配属された書記は二人。若いハンナは領都の代書人の娘で、目を輝かせて私の綴りの山を見ていた。四十代のペーターは元は税務の下級役人で、数字に強いという。
「先生の受理簿の噂、領都でも聞いています。七年、漏れなしなんですってね」
「噂は大げさよ。……でも、ここでも漏れなしでいきましょう」
ペーターが、遠慮がちに言った。
「実は先生、市場の営業権の件で、商人同士がまた揉めておりまして。契約書らしい契約書がなく、言った言わないの応酬で」
「分かりました。それが次の仕事ですね。まず、関係者全員の言い分を、紙に起こすところから始めましょう。――記録は、喧嘩の後ではなく、前に作るものです」
ハンナが目を丸くし、それから嬉しそうに頷いた。
(この部屋が、私の居場所になる。机と、書棚と、私を必要としてくれる人々と)
私は分室の新しい受理簿を開き、最初の頁に、今日の日付と、自分の雇用契約の件名を書き込んだ。領地公証官としての、第一号の記録である。書き終えて、直されたばかりの印ケースから印を取り出し、押す。留め金は、もう勝手に開かなかった。
夕方、王都からの書状を開いた。局長の、几帳面な字だった。
『監査院が、ベルモント伯爵家の過去の契約について調査を始めた。両替商ギルドからの告発が発端である。調査の過程で、同家の契約書数通に、様式番号と日付の不整合が既に見つかっている。ついては、貴殿の受理簿および作成記録の写しについて、近く正式な照会がある見込みである。心積もりを』
添えられたミナの私信には、こうもあった。
『カスパル様が局に来て、あなたの行き先をしつこく聞いていたわ。痩せた顔で、何度も。気をつけて』
私はその場で、局長への返信をしたためた。写しはすべて保全してあること。正式な照会があれば、規則に従い速やかに提出すること。そして最後に一行だけ、私信として添えた。――ご心配は無用です。私はこちらで、必要とされています。
(必要とされている。その言葉を、臆せず書けるようになった自分に、私がいちばん驚いていた)
私は書状を置き、分室の書棚に並べた三冊の綴りを、そっと指でなぞった。
(「紙くずなら、勝手になさい」。そう言われて抱えて出たこの三冊を、今度は王都の監査院が、必要とするらしい)
婚約を失い、家を出て、辺境で居場所をもらった。私の転職は、ここで一段落のはずだった。けれど過去の帳尻は、まだ終わっていない。終わらせるためには、いずれ王都のあの人々と、記録を挟んで向かい合うことになるのだろう。
直された留め金は、かちりと確かな音で閉まった。
(行こう。次は、私の記録が呼ばれる場所へ)




