堰の前で
調停の日、分水堰の前の広場には、両村のほぼ全員が集まっていた。
堰の水音を背に、私は小さな机を置き、その上に三つのものを並べた。四十五年前の検地帳。四十年前の水利協定の謄本。そして、ロレンツの持つ例の覚書である。公爵は少し離れた場所に立ち、腕を組んで見守っていた。口を出さない、という約束どおりに。
まず、両村長に言い分を述べてもらった。ロレンツは覚書を掲げ、「契約は契約だ」と繰り返す。ヤーコプは乾いた貯水池の窪地を杖で指し、「夜の水を返してくれ」と言った。ミーレの若い衆が「フェルトは夜中に板を動かした」と声を上げれば、フェルトの若者も「流木を取っただけだ」と応じる。広場は、すぐに熱を帯びていった。
私は一度だけ、手を打った。小さな音に、ざわめきが止む。
(公証局の窓口と同じだ。順番を決めれば、人は話を聞く)
「今日は、どちらの村が正しいかを決める日ではありません。四十年前に、皆さんの祖父同士が何を約束したのかを、記録で確かめる日です」
最初に示したのは、謄本だった。配分は六対四。夜の水は下流の貯水池へ。干ばつの年は耕地を優先。そして維持費は、年三百の銀貨。
「年三百……」
ヤーコプが震える声で言った。
「そうだ。出し合っていた、あの金だ。……やっぱり、約束はあったんだ」
次に、私は覚書を手に取った。
「では、この覚書はどうでしょう。確かに、四十年前の日付が書かれています。ですが、この村印を見てください。角が欠けています。教会の年代記によれば、村印が欠けたのは十五年前、村役場の小火の時です。十五年前に欠けた印が、四十年前の書類に押されているはずがありません」
広場が、ざわりと騒いだ。
「それから金額です。数字は三千、文字は三百。この『三百』は、謄本にある年三百の維持費の数字です。この覚書は、元の取り決めを下敷きに、十数年前――おそらく、あの大干ばつの頃に作られたものです」
ロレンツは覚書を握りしめたまま、しばらく動かなかった。
「……父が、嘘の書類を作らせるはずが。あの人は、村の誰よりも、水を大事にしていた人だ」
「大事にしていたからこそ、だと思います。守りたいものが大きすぎて、正しい方法を選べなかった。――この書類は、その証拠でもあります」
ロレンツの顔から、血の気が引いていった。
「……父が」
彼は掠れた声で言った。
「父が死ぬ間際、言っていた。『水は買った。だから堰はうちのものだ』と。俺は、それを信じて……。代書人に金を払って、古い書類を『整えてもらった』とも」
「ロレンツ様。お父様は、村を守ろうとしたのだと思います。干ばつで、畑も水車も止まりかけた年に。ただ、その方法だけが、間違っていた」
ヤーコプが杖をついて立ち上がった。怒鳴るかと思った。けれど老村長は、長い沈黙の末に、ぽつりと言った。
「あの年は、うちも必死だった。……夜の水さえ約束どおり来ていれば、と思うことは、今でもある。だが、お前の父を牢に入れろとは言わん。もう死んだ人のことだ」
杖の音がした。マルガレーテが、人混みを分けて前に出てきたのである。
「わしは覚えとる。四十年前の洪水のあと、両村の爺さま同士が、うちの台所で酒を酌み交わして決めた晩をな。『昼は水車にやれ、夜は田にやれ。困った時は、食い物を先にしろ』。あの晩のことは、年代記よりわしの頭に残っとる」
最長老の言葉に、広場が静まり返った。紙の記録と、人の記憶が、同じ場所を指し示した瞬間だった。
(壊さずに、正す。――できるかもしれない。記録の示す真実を、憎しみではなく、これからの約束に変えることが)
私は用意してきた新しい契約書を広げた。
「提案します。あの覚書は無効とします。その上で、四十年前の取り決めを土台に、今日ここで、新しい契約を結び直してください。配分は六対四、夜の水は貯水池へ。干ばつの年の決まりも、今回ははっきり文字にします。この十数年、ミーレ村が約束より多く使った水の代わりは、お金ではなく、今秋の堰の補強工事に、ミーレ村が人手を出すことで精算する。罰金ではありません。堰は両村のものですから」
両村長が顔を見合わせた。やがてロレンツが、深く頭を下げた。
「……済まなかった、ヤーコプ爺。父のしたこと、俺からも謝る。その契約、結ばせてくれ」
契約書に、両村長が署名する。公爵が領主として承認の印を押し、最後に私が公証印を――取り出した印ケースの留め金が、また勝手に開きかけたが、今度は落とす前に指で押さえた。
(まったく、この子は大事な場面で)
印は、滞りなく押された。四十年の争いが、紙の上で、静かに終わった瞬間だった。
フェルト村の女たちが、堰の水を汲んだ新しい甕を運んできた。今日からまた、この水は両村のものだという。最初の一杯は、私の机の前に置かれた。
広場の空気が、ふっと緩んだ。フェルト村の子どもたちが、摘んできた野花の束を私の机に置いていく。ミーレの子どもも、遅れて小さな水車の玩具を置いていった。どちらが先に置いたかで子ども同士が小さく言い合い、それを両村の大人が笑って見ている。四十年ぶりに、この堰の前で、両村が同じものを笑った。
帰り際、足を止めたのは都帰りの行商人だった。
「先生、ついでに私の取引の契約書も、見てもらえませんか。相手の商会の書面、どうも日付が怪しくて」
(先生。また、そう呼ばれる。しかも今度は、仕事の依頼付きだ)
公館への帰り道、家令のグレゴールが珍しく私の横に並んだ。
「……正直に申せば、最初は、女の公証人殿などと、思っておりました」
「知っていました」
「失礼を、お詫びします。あの場を収めるのに、剣も、声の大きさも要らなかったとは」
(この頑固な家令に、そう言ってもらえる日が来るとは)
「それと、もう一つ。公館に、王都公証局からの急使が参っております。アーレン様宛の、局長直筆の書状だそうです」
四十年物の決着をつけた、その日のうちに。今度は王都が、私を呼んでいる。




