埃の下の約束
領都の文書庫は、埃と、黴と、諦めの匂いがした。
帳簿も書簡も、年代も種類もばらばらに詰め込まれ、山は崩れかけている。家令のグレゴールが鍵を開けてくれたが、扉の前でしばらく立ち尽くす私を見て、ふんと鼻を鳴らした。
「先代の頃から、誰も触れておりません。探し物など、見つかるものでしょうか」
「見つかります。書類というのは、置いた人の癖で眠る場所が決まっていますから」
(強がりである。でも、こういう山は王都の局の倉庫でも見てきた。分類の癖は、どこの役所も大差ない)
とはいえ、最初の半日で見つけたのは、要らないものばかりだった。先々代領主の狩猟の記録、馬の血統書、それに――これはそっと元の場所に戻した――若い頃の先代が、誰かへの思慕を綴ったらしい手紙の束。四十年分の埃は、要るものと要らないものを、分け隔てなく守っていた。
それでも、山の崩し方には順序がある。年代の手がかりのあるものを端に寄せ、様式の古いものを奥へ。夕方になって、ようやく「検地」の背文字が見えた時、私は思わず声を漏らした。
まず手をつけたのは、四十五年前の検地帳だった。革の表紙はひび割れ、中の測量図は色褪せていたが、線の一本一本は今も判読できる。アルナ川の分水堰の図面に、私は思わず息を呑んだ。
堰の取水口には、分水板が描かれている。板に開けられた穴は、上流側へ六つ、下流側へ四つ。そして欄外に、小さな字で注記があった。
『水は分水板をもって六対四に分かつ。ただし日没より夜明けまでは、下流の貯水池に全量を流すこと。大洪水の翌年、両村の長立ち会いのもと定む』
(あった。――約束は、確かにあったのだ。言い伝えではなく、紙の上に)
その夜、文書庫の扉が軋んだ。グレゴールが、灯りと、湯気の立つ杯を持って入ってきたのである。
「……長居をなさるなら、灯りが要りましょう。目を悪くされては、公爵様がお困りです」
「ありがとうございます」
「それにしても、よくもまあ、あの山から。先代様の代書人は字の綺麗な男でしたがね、綴じる場所だけは適当でして」
(代書人。綴じる場所が、適当。――その一言が、正式な写しの眠っている場所を教えてくれた気がした)
だが検地帳の注記は、あくまで検地役人の控えである。正式な取り決めの本文が別にあるはずだった。両村の長の署名と、立会人の印のある、一通の契約書が。
山を崩し、綴りを繰ること、丸一日。夕方近くになって、私は「洪水復旧工事費」と書かれた綴りの束のいちばん下で、色の違う一枚を見つけた。
それは公証の謄本だった。巡回公証人フィンセントの署名と印。四十年前、大洪水の翌年に作成された、両村の水利協定の写しである。領主の家に納められた控えが、工事費の領収書と一緒に綴じ込まれ、そのまま四十年眠っていたのだ。
本文は、検地帳の注記より詳しかった。
――水の配分は六対四。夜間は下流の貯水池へ全量。干ばつの年は耕地を優先し、水車は隔日運転とする。堰の維持は両村の共同。下流の村は維持費として、年三百の銀貨を上流の村に納める。
謄本の末尾には、巡回公証人フィンセントの署名があった。四十年前、馬で領地を回り、村々の約束を一つずつ紙に残していった同業者の字は、几帳面で、少しも揺らいでいない。
(あなたの記録が、四十年越しに人を救うのですよ、先輩)
(年三百。……そうか。あの覚書の「三百」は、ここから来ている)
誰かがこの取り決めを下敷きに、別の書類を作ったのだ。年三百の維持費を、銀貨三千の一括払いに書き換え、「権利の永久譲渡」という、元の協定には存在しない言葉を継ぎ足して。
念のため、翌朝、私は堰に向かって分水板を自分の目で確かめた。今の板は新しいものに替えられていたが、石組みに残る古い溝と、脇に立てかけられた朽ちた旧板には、穴の跡が残っていた。上流へ六つ、下流へ四つ。検地帳の図のとおりである。
(紙の上の約束は、石と木にも刻まれていた。記録は、一つでも残れば辿れるのだ)
あと一つ。印の欠けの時期さえ確定すれば、覚書の偽りは完全に証明できる。
教会の年代記は、司祭が快く見せてくれた。
「ここに書くのは、人の一生と村の出来事だけです。ですが公証人さん、人の一生の記録のほうが、よほど正直なこともありますよ」
洪水の年、干ばつの年、豊作の年。村の出来事が、几帳面な字で並んでいる。十二年前の頁には「大干ばつ、両村、堰の水を巡り諍い」とあった。そして十五年前の頁に、私はついにその一行を見つけた。
『村役場に小火あり、村印、火に炙られ角を欠く』
(決まった。これで、全部繋がった)
十五年前に欠けた印の印影が、四十年前の日付の書類に押されているはずがない。あの覚書は、干ばつの頃、十数年前に作られた後付けの書類だ。作ったのは、おそらく代替わりした代書人。そして頼んだのは――ロレンツの父、先代の村長だろう。マルガレーテの言葉が蘇る。あの干ばつは、どちらの村にとっても命がけだったはずだ。
その夜、私は公爵に報告した。証拠の筋道を、順を追って説明する。
「……なるほど。それで、どう裁く」
「裁きません」
公爵が眉を上げる。
「記録は、人を裁くためだけにあるのではありません。あの覚書を作った先代村長は、悪人というより、追い詰められた人だったのでしょう。明日、両村の前で事実を全部示します。その上で、偽りの書類は無効とし、元の取り決めを土台に、今の両村で結び直せる新しい契約を提案します。罰ではなく、直すための場にしたいのです」
「……好きにしろ。責任は私が持つと言った」
(この人は、本当にそういう人なのだな)
自室に戻り、私は夜更けまで新しい契約書の案文を書いた。元の協定の骨格はそのままに、干ばつの年の取り決めを細かくし、堰の維持の分担を文字にする。書き終える頃には、蝋燭が半分になっていた。
(明日、真実を全部言う。けれど真実は、言い方を間違えれば人を壊す。――壊さずに、正す。私にできるのは、それだけだ)
机の隅で、壊れかけた印ケースが、明日の出番を待つように静かに光っていた。




