乾いた畑と水車小屋
馬車で四日。ヴァルデン領は、地図で見るよりずっと広く、ずっと静かだった。
三日目の昼に立ち寄った宿場町では、関所の番人が通行税を口頭で告げ、領収の印もなしに馬車を通した。領都に近づくにつれ、道端の村々では家に番地の札もなく、井戸の脇に立つ古い石碑の文字は、誰の所有を示すものか判読できなかった。
「気になるか」
並走する馬上から、公爵が声をかけてきた。出発の朝から、彼は護衛も兼ねて馬で随行している。
「……はい。記録のない場所では、決まりは声の大きい者のものになります。私は、それが少し、怖いのです」
「だから連れてきた」
公爵は短く言って、また前方に目を戻した。
領都ヴァルデンブルクの公館に着いたのは、夕方のことである。出迎えたのは家令のグレゴールという老人で、六十年余りをこの館で過ごしてきたという。挨拶は滞りなく丁寧だったが、私の顔と、抱えた印ケースと、後ろに積まれた三冊の綴りを見比べる目つきは、はっきりと値踏みをしていた。
「王都の公証人殿が、辺境くんだりまで。……よくぞお越しくださいました」
(「よくぞ」の裏に「本当に務まるのか」が透けている。まあ、無理もない。私だって、自分が務まるか分からないのだから)
通された執務室の片隅には、紐で括られた書類の束が、崩れかけた山を作っていた。領都の公館でさえ、この有様である。
(「立て直し」とは、よくぞ言ったものだ。……いえ、だからこそ私が呼ばれたのだけれど)
翌朝、公爵に連れられて、私はアルナ川の分水堰に向かった。
上流側のミーレ村では、水車が重そうな音を立てて回っていた。製粉所の煙突からは煙が上がり、村人の顔色も悪くない。ところが堰を境に下流側へ目を転じると、景色が一変した。フェルト村の畑はところどころで土がひび割れ、まだ青いはずの麦が、半分ほど黄色く枯れかけている。水路には、水が申し訳程度にしか流れていなかった。
少し先にあるはずの貯水池は、底の泥が乾いて割れていた。水汲みの子どもたちが、空の桶を担いで、遠くの井戸へ向かう列を作っている。夜の水が来なくなって何年も経つ池は、今やただの窪地だった。
「ご覧のとおりです」
案内するフェルト村の村長ヤーコプは、七十を過ぎた老人だった。腰は曲がっているのに、声だけは若い。
「約束では、夜の水はうちの貯水池のものだった。だがこの十何年、あの覚書とかいう紙切れ一枚で、堰は昼も夜もミーレのもんだと言われ続けてきた」
堰の向こうから、ミーレ村の村長ロレンツが大股でやって来た。五十代半ば、日に焼けた頑固そうな男である。懐から大事そうに取り出したのは、油紙に包まれた一通の書類だった。
「これが先代同士の取り決めだ。フェルトは水利の優先を、銀貨三千でうちに譲った。だから堰の水は、まず水車が使う。それが契約だ」
それは、王都の応接室で公爵が見せてくれた、あの覚書の写しと同じものだった。数字は三千。けれど文字で書かれた金額は、三百のままである。
「ロレンツ様。一つだけ確認を。この金額、数字は三千ですが、文字の方は三百と書かれています。どちらが正しいのでしょう」
「……書き間違いだ。代書人の手抜かりだろう」
「三百という数字には、心当たりはありませんか。たとえば毎年、堰の維持のために出し合っていたお金とか」
ロレンツは口を真一文字に結んだ。代わりにヤーコプが首を振る。
「維持の金なら、昔は両村で出し合っとった。年に銀貨三百ほどをな。だが優先を売った覚えはねえ。売るはずがねえんだ。水を売ったら、村は死ぬ」
ミーレの製粉所の親方だという男が、割って入った。
「夜の水だって? こっちの言い分もある。夜中にフェルトの若いのが、堰の板を勝手に動かしたことがあるんだ。あれ以来、水車に番を置いてる」
「動かしたのは、板の隙間に詰まった流木を取っただけだ!」
フェルトの若者が声を荒らげる。
言い争いが始まりかけたところで、公爵が短く「今日は聞くだけだ」と制した。その声の低さに、両村長とも口を閉ざす。
(喧嘩の仲裁がしたいのではない。私は記録を集めに来たのだ)
午後、私はミーレ村の役場に寄せてもらい、村印を見せてもらった。木箱から出された印は、角が一か所、はっきりと欠けている。覚書に押された印影の欠けと、寸分違わぬ位置だった。
「この印は、いつ欠けたのでしょう」
「さあな。俺が物心ついた頃には、もう欠けておった気がするが」
ロレンツは首をかしげた。嘘をついている顔ではなかった。本当に知らないのだ。
堰に戻る道すがら、水路の脇に座っていた老婆が私を呼び止めた。フェルト村の最長老、マルガレーテ。八十三歳だという。
「あんた、王都の先生かい」
「先生だなんて。公証人のセリナです」
「その印が欠けた年のことなら、わしが覚えとる。村役場が小火を出した年だ。わしの孫が生まれた年でな。……今年で十五になる」
(十五年。四十年前の日付の覚書に、十五年前に欠けた印の印影がある。これは――)
私は表情に出さないよう、ゆっくりと頷いた。断定はしない。記憶は当てにならないからこそ、記録で裏を取るのが私の仕事だ。
「マルガレーテさん、その年のことは、どこかに書かれていませんか」
「教会の年代記には、村のことは何でも書いてあるよ。それと、領主様の文書庫にも、古い帳面が山ほど眠っとるはずだ」
その時、後ろから村人の声がした。フェルト村の若い農夫が、わざわざ畑から駆けてきて、私の前で深く頭を下げたのである。
「先生、遠いところをありがとうございます。公爵様のお役人が、わしらの畑まで来て話を聞いてくれるなんて、初めてで」
(先生。……私はまだ何もしていない。話を聞いて、書類を一枚読んだだけだ)
戸惑いながら頭を下げ返す私の後ろで、公爵がぽつりと言った。
「明日は文書庫だ。好きなだけ掘るといい」
四十年続いた争いの底に、記録の嘘が一つ、静かに沈んでいる。その確信だけを抱えて、私はその夜、印ケースの緩んだ留め金を、爪でそっと押し直した。




