公爵の依頼
翌日、公証局の応接室で、私は辺境公爵と向かい合った。
レオンハルト・フォン・ヴァルデン公爵、三十四歳。国境の守りを担うヴァルデン領の領主で、昨日の待合の、あの大きな男だった。近くで見ると、想像していたよりも疲れた顔をしていた。机の上に、彼が広げた領地の地図には、赤い印が無数についている。
「単刀直入に言う。私の領地の契約は、めちゃくちゃだ」
公爵は地図の赤印を指でなぞった。
「先代と先々代が、その場の口約束と印だけで物事を決めてきた。代替わりのたびに言い分が食い違い、今や村同士の水路の権利、森の伐採権、市場の営業権――係争が十七件。商人は正式な契約書がない土地とは取引したがらない。立て直したい。だが、領の役人は全員、先代以来の顔ぶれでな」
「一番古いものは、四十年越しの水路の争いだ。大洪水で川の流れが変わった時、両村の取り分を決めたはずの覚書が、どこを探しても出てこない。あるのは『決めた』という言い伝えと、年寄り同士の記憶の食い違いだけだ」
「記録が、残っていないのですね」
「残っていないのではない。最初から、作られていないのだ」
公爵の声には、疲労と一緒に、領への苛立ちとも愛着ともつかないものが滲んでいた。
(作られていない記録。――私の三冊の綴りとは、正反対の世界だ)
公爵は、係争の一件の契約書だという写しを一枚、私の前に滑らせた。
「試しに、見てみるか」
水路の使用権をめぐる、二つの村の覚書。私は癖で、まず日付と様式と金額の表記を追った。……数秒で、手が止まった。
「公爵閣下。この覚書、金額の数字と、文字で書かれた金額が違います。数字は三千、文字の方は三百です。それに、この印影――角が欠けていますね。印そのものが欠けた時期より前の日付が打たれているなら、この書類は後から作られたものです」
「……ほう」
「少なくとも、この一枚は証拠として信用できません。係争の判断材料から外すべきです」
公爵は腕を組み、満足そうに頷いた。
「領の役人に同じものを出せば、十人中十人が『印があるから本物だ』と言う。君は十秒で見抜いた。……それで、なぜ私に」
「昨日、見ていたからだ」
公爵は真っ直ぐに私を見た。
「婚約者に、日付の偽造への加担を迫られて、君は断った。局の規則を持ち出したのではない。自分の原則で断った。『読んでいない書類には印を押さない』。私が必要としているのは、権力者の前でもそう言える公証人だ」
(この人、全部聞いていたのだ。あの恥ずかしいやり取りを、全部)
耳が熱くなった。公爵は構わず続ける。
「下調べもした。君の受理簿は七年間、記載の漏れが一度もないそうだな。局の同僚は『アーレンに任せれば、後から困ることがない』と言っていた」
(……そんなふうに、言われていたなんて)
私は何と答えていいか分からず、膝の上の印ケースを握った。その瞬間、緩んでいた留め金がついに外れて、蓋がかたんと開いた。中で公証印が転がる。
「あ……す、すみません」
慌てて押さえる私を、公爵は黙って見ていた。笑いはしなかった。それがかえって恥ずかしかった。
「……一つ聞かせてください。領の皆さんは、王都から来た、しかも女の公証人など、受け入れてくださるのでしょうか」
「受け入れるかどうかは、仕事で決まる。四十年の争いを終わらせれば、村人は君を『先生』と呼ぶようになるだろう。逆に失敗すれば、私の見る目がなかったということだ。責任は私が持つ」
(責任は、持つ。この人は、そういうことをさらりと言う人らしい)
「条件を提示する」
公爵は懐から一枚の書面を出した。そこには、現在の倍近い俸給、領都の公館に併設された住居、そして『領地公証官』という新しい役職名と、領内の契約管理に関する全権委任の文言が、整った字で並んでいた。
「全権、ですか」
「印を押すだけの人間が欲しいのではない。読んで、間違いがあれば私にも突き返す人間が欲しい」
書面には、仕事の細目も書かれていた。領都に小さな公証局の分室を開くこと。書記を二人、付けてもらえること。係争の記録はすべて私の管理下に置かれ、領主といえども勝手に持ち出せないこと――最後の一文を読んで、私は顔を上げた。
「……この条項は」
「君のための保険だ。私が将来、君に無理な印を迫るような領主になった時のために、な」
(自分の権力を縛る条項を、自分で用意してくる領主がいるなんて)
昨日、印を押せと怒鳴った男の顔が、一瞬だけ脳裏をよぎった。人と人とは、こうも違うものか。
昨日、婚約者に言われた言葉と、まるで裏返しの言葉だった。
「……私は、ただの事務屋です。地味で、融通が利かなくて、婚約も破棄されたばかりで。それでも、ですか」
「融通が利かないのが、採用の理由だと言っている」
公爵は少しだけ、笑ったようだった。
私は書面を読み直した。三度読んで、顔を上げる。
「一つ、条件があります。正式な雇用は、私が最初の一件――その十七件の中で一番古い係争を、記録で決着をつけてからにしてください。私の仕事が領のお役に立つかどうか、それで判断してください」
「……ほう」
「代わりに、その一件の間は試用として、身柄と記録の保全を保証してください」
公爵はしばらく私を見つめ、それから大きく頷いた。
「いいだろう。では相棒として頼む、セリナ・アーレン」
名前で呼ばれた。その響きが、思いのほか胸に残った。
面談の後、局に戻った私を、ミナが捕まえた。
「ねえ、聞いたよ。ヴァルデン公爵のところに行くんだって? すごいじゃない。辺境の立て直しを任されるなんて、局始まって以来だって局長が言ってた」
「まだ試用よ。最初の係争を片付けてから、正式に決まるの」
「あんたなら片付けるよ。だって、困った書類のことなら、王都で一番頼りになるんだから」
(王都で一番。そんな大げさな。……でも、昨日も今日も、他人の口から聞く私の評判は、私の知っている私より、ずっと立派だ)
その落差に戸惑いながら、私は試用の受託を、自分の受理簿に書き込んだ。日付、依頼人、件名、条件。書き終えて、印を押す。これで正式に、私の仕事になった。
出発は三日後。一番古い係争は、四十年も前から続く、二つの村の水路をめぐる争いだという。私の武器は剣でも魔法でもなく、この腕の中の、壊れかけた印ケースと記録だけだ。
(行こう。――今度は、私を選んでくれた場所へ)




