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紙くずと、記録と

 翌日の昼、ベルモント伯爵邸に呼び出された。


 その朝、公証局では、局長が苦情の書類を預かったまま、私に何も言わなかった。出勤してきたミナが小声で教えてくれる。


「局長ね、苦情の回答書に『担当公証人の判断は規則に沿ったものである』って、もう書いてたよ。丸くなれって言ったくせに、あの人なりに庇ってくれてるんだと思う」


(……ありがたい。けれど、家同士の話になれば、局の庇護は届かない)


 昼休みに届いた伯爵邸からの使いを見て、私はそのことを悟っていた。今日の呼び出しは、昨日の続きだ。謝罪の席ではない。おそらく、宣告の席だ。


 覚悟を決めて、私は一番ましな服に着替えてから邸へ向かった。


 応接間には、カスパルと、その母である伯爵夫人が待っていた。紅茶は出なかった。出すまでもない用件だということだろう。


「セリナさん。昨日の振る舞い、息子から聞きました」


 夫人の声は穏やかで、その分だけ冷たかった。


「婚約者であるカスパルの頼みを、公衆の面前で撥ねつける。しかも偽造などという言葉まで使ったそうですね」

「事実を申し上げたまでです。あの書類の日付は――」

「もう結構」


 夫人は手で制した。


「はっきり申し上げます。この婚約は、なかったことにいたします。伯爵家の跡取りの妻に、夫に逆らって恥をかかせる女は置けません」

「……分かりました」


 あっさりした返事に、カスパルが目を見開いた。もっと泣くとか、縋るとか、そういう場面を期待していた顔だった。


(期待に応えられなくて、残念ね)


 不謹慎な本音が浮かんで、私は自分の心の薄情さに少し驚いた。悲しくないわけではない。七年も続いた婚約だった。けれど昨日のあの声――「印くらい黙って押せ」――が耳に残っていて、涙より先に、ほっとした気持ちが来てしまうのだ。


「では、最後に形式だけ整えさせてください。この婚約の解消について、日付と、双方合意である旨を記した確認書を一通、作成していただけますか。――後日、言った言わないの争いにならないために」


 夫人の眉が跳ね上がった。


「婚約を解消される席で、書類の心配とは。……呆れた事務屋ね」

「はい。事務屋ですので」


 私はまっすぐ夫人を見た。やがて夫人は、渋々ながら執事に命じて確認書を用意させた。日付、解消の事実、慰謝料等の請求を双方行わないこと。私は読み、間違いのないことを確かめてから、震えない手で署名した。


(これでいい。終わるものは、きちんと記録して終わらせる。それが私の流儀だ)


「もう一つだけ、お願いがあります」


 私は立ち上がり、夫人に頭を下げた。


「この二年、ベルモント家の契約や家計の書類仕事を、私がこちらの執務机で手伝っておりました。その机の引き出しに、私の作成控えの綴りが入っています。公証人として作成した記録の写しで、持ち出しは規則で認められているものです。それだけ、頂いて帰ります」

「紙くずのことなら、勝手になさい」


 夫人が鼻で笑った。


(紙くず。……そう思うなら、それでいい)


 執務机の引き出しには、革表紙の綴りが三冊あった。抵当、売買、贈与、雇用――私がこの家のために整えてきた契約の公証記録の写し。ページを繰れば、あの「三か月前の日付」の借入が、実は今回が初めてではないことまで、時系列で辿ることができる。


 試しに一番古い綴りを開いてみた。一昨年の、屋敷の改修費の借入契約。その写しの左上にも、新様式の番号があった。公布より前の日付なのに、である。


(……一度ではない。二度も、三度も。私に押させる前に、誰かが日付を書き換えて、別の公証人の印で通してきた)


 背筋が冷えた。私が昨日断ったのは、氷山の一角だったのだ。この三冊は「紙くず」などではない。いつか誰かが真実を必要とした時に、辿ることのできる唯一の道筋だった。


 私は綴りを抱え、誰にも見送られずに伯爵邸を出た。


 帰宅すると、父と母はもう知っていた。話は早い。母は「伯爵家だったのに」と何度も言い、父は新聞から顔を上げもしなかった。


「姉さんの時は、相手の家の蔵まで調べたのにね」


 思わず零れた私の言葉に、母は眉をひそめた。嫁いだ姉の縁談には一家総出で奔走したのに、次女の破談の報せには、お茶の一杯も出ない。次女というのは、こういう時に後回しにされるものだと、私は知っている。知っているけれど、今日くらいは少しだけ、堪えた。


(いいえ。堪えている場合ではない。私は明日からも、公証局に通うのだ)


 苦情を入れられ、婚約を失っても、私の仕事は私のものだ。クビだと言われない限り、机の前に座り続ける。それが、地味な事務屋にできる、たった一つの意地だった。


 自室に戻り、綴りを机に並べた。


(私は、ただの事務屋だ。剣も魔法も人並み以下で、地味で、生意気で)


 でも、この三冊だけは違う。誰に頼まれたわけでもなく、私が一行ずつ、間違いのないように積んできたものだ。婚約はなくなった。家での居場所も、もともと薄い。けれど記録だけは、私が何者かを黙って証明してくれる。


(これを抱えて、どこへ行くかは、これから決めればいい)


 ――その夜遅く、玄関で馬車の音がした。


 紋章入りの封筒が、使用人の手で私の部屋に届けられる。濃紺の封蝋。ヴァルデン公爵家の紋章だった。


『明日、貴殿の勤務先にて面談を申し入れたい。領地の将来に関わる、切実な依頼である。報酬や身分については、貴殿の希望を聞いてから決めたい』


 希望を聞いてから決める。そんな文面を、私は初めて受け取った。婚約者だった人は私に「黙って押せ」と言い、伯爵夫人は「紙くずなら勝手に」と言った。なのに、会ったこともない辺境の公爵は、私の希望を聞くと言う。


 手紙を二度読み返し、私は机の引き出しから便箋を出した。返信は短く、丁寧に。――面談、お受けいたします。明日の午後、公証局の応接室でお待ちしております。


(明日は、留め金の壊れかけた印ケースなんて、持っていけない)


 そう思ったのに、印ケースを買い替える金は、今の私には惜しかった。結局、緩んだ留め金を指先でそっと整えて、布で包むことにした。


 差出人は、レオンハルト・フォン・ヴァルデン公爵。


 私は封筒を裏返して、今日届いた苦情の写しと並べて置いた。婚約を失ったその日に、辺境の公爵から「切実な依頼」が届く。人生というのは、記録の帳尻が合わないことばかりだ。


(明日。……とにかく、印ケースの留め金、直さないと)


 長年使っている木製の印ケースは、留め金が緩んで、時々勝手に蓋が開くのだった。

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