印くらい黙って押せ
「印くらい黙って押せ。お前に求められているのは、それだけだ」
書類が、私の机に叩きつけられた。紙の端が跳ねて、乾きかけたインク壺が小さく揺れる。
王都公証局、二階の執務室。午後の光が斜めに差し込むこの部屋で、私――セリナ・アーレン、二十一歳、公証人――は、婚約者の怒声を浴びながら、まず最初にその書類を読んだ。いつもの癖である。怒鳴られていようが何だろうが、紙に書かれた文字は文字として読む。読めば、だいたいのことは分かる。
(……おかしい)
契約書だった。ベルモント伯爵家が、王都の両替商ギルドから大金を借り入れるための抵当設定契約。差し入れられる抵当は、領地の穀物倉庫。署名欄の日付は、三か月前の日付になっていた。
抵当の穀物倉庫、という箇所にも、覚えがあった。先々月、火災による焼失の届出がこの局に出されている。私が受付印を押した書類だ。焼けた倉庫を抵当に差し入れる契約が、火災より前の日付で作られたことになっていれば、借りた金の行方はどうなるか――考えたくもない話だった。
(これは、ただの不注意ではない。日付を偽ることに、はっきりした意図がある)
私はもう一度、紙の左上を見た。様式番号が、目に留まる。
「カスパル様。この書類、受理できません」
「何だと」
「この契約書の様式は、先月に公布されたばかりの新様式です。三か月前の日付で作成された書類に、この様式は使われていません」
静かになった。向かいの椅子に座るカスパル・フォン・ベルモント、伯爵家の嫡男、私の婚約者は、ゆっくりと顔を赤くしていった。
「……細かいことを」
「細かくありません。日付を三か月遡らせて公証を受ければ、それは偽造です。抵当の倉庫は先々月に――」
「理由を聞け。両替商への返済が、今月末に迫っているんだ。この借入が通らなければ、家は担保の屋敷を失う。婚約者なら、家を救うのが当然だろう」
(――つまり、火災で焼けた倉庫を、焼ける前の日付で抵当に差し入れ、保険と融資を二重に引き出すつもりだった、ということ)
「その『当然』のために、私に犯罪の片棒を担げと」
「大げさなことを言うな。誰も見ていない」
「書類は残ります。人が見ていなくても、記録は――」
「黙れ」
彼は立ち上がった。
「公証人など、印を押すだけの仕事だろう。内容がどうだろうと、お前が押せば正式な書類になる。家同士の婚約が決まっている相手に、その程度の融通も利かせられないのか」
「利かせられません」
「セリナ。お前はいつもそうだ。生意気で、融通が利かなくて。だから次女のお前は、二十一にもなって公証局などという地味な勤め先に――」
「カスパル様」
私は書類をそっと押し戻した。声が震えていないことを、神に感謝した。
「私は、読んでいない書類には印を押しません。それが私の原則です。そしてこの書類は、読んだ上でお断りいたします」
(本当は、怖い。怖いけれど、押したら終わりなのだ。この印は、私の名前だ)
カスパルは書類を掴み、荒々しく折りたたんだ。
「いいだろう。局長に苦情を入れる。それから、家に帰ってよく考えるんだな。この婚約がどうなるか」
扉が大きな音を立てて閉まった。
しばらくして、私は受付簿を引いた。受理しなかった書類も、記録は残す。――本日午後、ベルモント伯爵家より抵当設定契約書の公証申出あり。様式と日付の不整合のため不受理。申出人、苦情を予告して退室。淡々と書き込むうちに、手の震えは止まっていた。
(記録は残る。私が何をして、何をしなかったか。それだけは、誰にも曲げられない)
執務机の引き出しから、受付の同僚ミナが顔を出した。湯気の立つお茶を、私の机の隅にそっと置く。
「大変だったね。……ねえ、セリナ。さっきの両替商の旦那がね、帰り際に言ってたよ。『アーレンさんのところの書類なら、目を瞑ってでも信用できる』って」
「……そう」
「あんた、局の外じゃ結構、名が通ってるんだよ。自覚ないだろうけど」
(名が通っている。私が、である。地味で生意気な次女の私が)
信じられない気持ちでお茶をすすると、薄い香りがした。ミナが気を利かせて、いつもより少しだけ良い茶葉を使ってくれたらしい。
その時、ふと視線を感じた。
執務室の入口近くの待合の長椅子。相談の順番を待つ人々の中に、いつからいたのか、大きな男が座っていた。質素な濃紺の外套、旅装に近い身なりなのに、姿勢だけが異様にまっすぐで、こちらのやり取りを静かに見ていたらしい。目が合うと、彼はわずかに顎を引いた。それが礼のつもりなのか、値踏みのつもりなのか、私には分からなかった。
夕方、局長に呼ばれた。苦情はもう届いているという。
「アーレン。相手は伯爵家だぞ。……少しは丸くならんか」
「丸くなるというのは」
「書類の隅の、ほんの少しの不備くらい、目を瞑るということだ」
「できません」
即答だった。局長が目を丸くする。
「あれは隅の不備ではありません。様式も日付も、根幹の偽りです。あの印を押せば、偽造の共犯として私の名前が残ります。……局長こそ、それでよろしいのですか。この局の公証印の信用は、先代から何十年もかけて積んだもののはずです」
局長はしばらく黙り、それから苦い顔で溜め息をついた。
「……苦情の処理は、局で預かる。お前は通常通り勤務しろ。ただし、この件、家同士の話にまで広げられると、局では庇いきれんぞ」
(庇いきれない、か。それでも、今の私は頷くしかなかった)
帰り際、受付の同僚が私を呼び止めた。
「セリナ、あの待合にいた大きなお客様ね。あなたの名前を指名して、相談の予約を入れて行かれたわよ」
予約票を見せてもらう。申込人の欄には、こう書かれていた。
――レオンハルト・フォン・ヴァルデン公爵。相談内容:領地の契約係争について。
ヴァルデン領。国境に面した、冬の寒さが厳しいことで知られる辺境だ。地図の上でしか見たことのない土地の公爵が、なぜ私を名指しで。
(苦情に、婚約の危機に、辺境の公爵。……今日は、記録することが多すぎる一日だ)
私は予約票の内容を手帳に書き写した。面談の日取りは、まだ決まっていない。けれど、いずれ私はあの男と、正式に向かい合うことになるのだろう。




