用件ではない話
分室の灯りは、一つだけ残して落としてあった。
レオンハルトは、私の机の向かいに座った。雇用契約の日に座った席である。あの日、彼の前には条件の書面があった。今日は、何もない。書類も、地図も、印もない机を挟んで、私たちは向かい合った。
(この人の用件は、いつも紙と一緒に来た。紙のないこの人の前は、いつもより、ずっと近く感じる)
「先に、断っておくことがある」
彼は、静かに切り出した。
「今日の話は、雇用とは切り離す。お前が何と答えようと、領地公証官の地位も、条件も、一切変わらない。契約書の文面は、そのまま守る。……それを約束してからでなければ、この話はできない」
「領主が、自分の権力を縛る条項を、自分で用意してくる方ですから」
私は、少しだけ笑った。初対面の日に聞いた、あの保険の条文が、頭をよぎる。
「覚えていましたか」
「当然だ。私の領の契約は、お前が全部、読んできた」
沈黙が落ちた。市場のほうで、最後の戸締まりの音がする。
「雇った理由は、初めに言ったとおりだ。権力者の前でも、読んでいない書類に印を押さない人間が必要だった。……その判断は、正しかった。領は変わった。制度もできた。お前は、この領にいなくてはならない人になった」
「それは、用件の話に聞こえます」
「ここからが、違う」
レオンハルトは、わずかに身を乗り出した。
「いなくてはならない、のは、領にとって、だ。……私にとっては、それでは足りなくなった。朝、分室の灯りが見えると、まず今日はどんな顔で書類を読んでいるかと考える。市場の報告より先に、お前の受理簿の字を思い浮かべる。これは、領主の考えることではない」
(ああ。この人は、不器用に、順番を守って話しているのだ。領の話を済ませてから、自分の話を)
彼は、そこで一度、言葉を切った。
「なぜ、今日まで言わなかったかも、言っておく。領主が、雇ったばかりの部下に言う言葉ではないからだ。お前の居場所は、お前の仕事でできている。それを、私の気持ちで汚したくなかった。……だから、裁定が終わり、お前がこの机に自分の意思で戻ってくるまで、待つことにした」
「ずいぶんと、長く待ちましたね」
「ああ。名前で呼んだ日などは、自分でもどうかと思った」
(堰への帰り道。「セリナ」と呼ばれた、あの日。あの人は、あの日すでに、順番を間違えまいと、自分と戦っていたのだ)
「セリナ。お前に、この領の人間としてではなく、私の傍らに立つ人として、いてほしい。雇用主と部下のままでは、私は終われない。――対等な相手として、考えてもらえないか」
声は、大きくなかった。けれど、その一言一言が、読み上げられる条文のように、私の胸に届いた。
(「考えてもらえないか」。命令でも、求婚の決め台詞でもない。検討の申出だ。この人は、私にまで、選ぶ余地を残して話す)
「答えは、急がないと言った。今日も、同じだ。考えて、迷って、条件を付けてくれて、構わない。――ただ、申出があったことだけは、知っておいてほしい」
私は、机の上の何もない場所を見つめた。
(考えて、迷って。……本当は、もう、答えの置き場所は決まっている。堰の前で並んで綱を引く村長たちを見た日も、祭りの夜に麦穂の飾りを付けてもらった日も、裁定の席でこの人が一度も前に出ず、私の持ち場を守ってくれた時も。私は何度も、この人の隣の景色を、先に見てしまっていた)
言えなかったのは、雇用の対価のように見えるのが、怖かったからだ。私の居場所は、私の仕事で勝ち取ったものだ。それを、恋の対価に変えたくなかった。
けれど、この人は、その怖さの分まで、先に紙の外で約束してくれた。地位は変わらない。条件も変わらない。変わるのは、関係の名前だけだ、と。
「……条件が、一つあります」
私は顔を上げた。
「はい。何でも言え」
「この先、二人で何か決める時は、どちらも、読んでからにしてください。分からないことは、分からないと聞くこと。署名は、自分の手ですること。――読まない書類に印を押さないのは、私一人の原則ではなくなります。それでも、よろしいですか」
レオンハルトは、一瞬きょとんとして、それから、声を出して笑った。この人のこんな笑い方を、私は初めて見た。
「……条件というものは、こう付けられると、弱いな。分かった。約束しよう」
「では」
私は、背筋を伸ばした。署名の時と同じ姿勢で。
「申出を、受理いたします」
「受理、か」
「はい。様式も、日付も、問題ありませんでしたので」
今度は、二人で笑った。公証の言葉でしか返事のできない私を、この人は笑って受け止めてくれる。それが、何よりの答え合わせのようだった。
「……一つ、聞いていいか。この受理に、写しの交付は」
「ありません。この件だけは、原本も写しも作りません。――覚えていてくださいね、レオンハルト」
「承知した。忘れない側の仕事は、私が引き受ける」
(記録係の私と、覚える側のこの人と。役割分担としては、悪くない配分だと思った)
(記録には、残らない約束だ。議事録も、写しも、作らない。守れるかどうかは、私たち次第。――でも、不思議と、不安はなかった。名前と日付のある紙に守られなくても、この人となら、守れる気がした)
帰り際、分室の扉の前で、レオンハルトが言った。
「明日も、九時に分室か」
「はい。手引きの続きがありますから」
「では、迎えに行く。用件では、ないぞ」
彼は先に立って歩き出した。その背中に、私は初めて、名だけで呼びかけた。
「レオンハルト」
彼は振り返った。少しだけ、目を見開いて。
「……何だ」
「いいえ。呼んでみただけです」
(名前で呼ぶ、というのは、こういうことだったのだ。相手が振り返る。それだけで、世界が少しだけ、近くなる)
彼は、困ったように、それでいて嬉しそうに笑い、もう一度背を向けた。その歩幅が、私の歩幅に合わせて、少しだけ遅くなっていることに、私は気づいていた。




