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机に戻る

 領境の峠を越えたのは、四日目の昼だった。


 関所の番人が帳面を開き、馬車の通行を記録して、小札に印を押す。その手つきは、もう迷いがない。印を光に透かして確かめる仕草だけが、若い番人の癖として残っていた。


「先生、お帰りなさい。裁定の報せ、領にも届いておりますよ」


「ありがとう。留守の間、関所はどうでした」


「帳面、二冊目が終わりかけです。……書くことが増えるのは、いいことですな。書くことがあるというのは、動いているということですから」


(四日、街を離れただけなのに、この領の言葉は、少しずつ変わっている。記録は財産、と私が言った言葉を、今は番人が自分の言葉で言い換えている)


 領都に入ると、市場の軒先から声がかかった。フォーゲル織物店の老店主は、店先に孫らしい少年を立たせ、私の馬車に深く頭を下げる。


「先生、この子が、私の孫でしてね。王都へ出た息子の子です。……この春から、店に置くことにしました。見習いの登録は、後日、分室へ」


 少年は緊張した面持ちで、登録証の掛かった店先をちらりと見た。六十年の許可証の家に、四代目の名前が、登録簿に載る日が来るのだ。


 リーザは店の棚を指して「王都の注文、第二便が来ました」と笑った。「刺繍布、王都の奥様方に受けてるんです。次は、フォーゲルさんの絹と合わせた新作を、共同で出す話も出ていまして」


(潰れるはずだった老舗と、追い出されるはずだった新参が、共同の品を作る。登録簿の隣同士の頁が、市場の景色を、ここまで変えた)


 公館の前庭では、グレゴールと分室の二人が待っていた。ハンナは駆け寄りかけ、思い直して背筋を伸ばし、滞りなく報告を始めた。


「先生、お帰りなさい。留守中の受理は、全部で四十件。大きな契約は、約束どおり一件も締結しておりません。……ただ、一件だけ、ペーターが」


「私が、対応しました」


 ペーターが一歩前に出た。手には、綴じた書類の束。


「両村の堰の番を巡って、交代の解釈で揉め事が。交代表の余白に注記がなかったのが原因でして。……先生なら、まず紙を開くと思いまして。交代の届出の原本と、両村の控えを並べ、解釈の根拠を書面にまとめ、両村長に確認の署名をいただきました」


 束を開くと、経緯の記録、根拠の対照、両村長の署名。手順は、私のやり方そのままだった。


「揉め事は、その場で収まりました。原本と一緒に、綴じてあります」


「……ありがとう、ペーター。見事よ」


(私がいなくても、紙が開かれ、記録が作られ、決着がつく。分室は、もう私一人の机ではない。それが、この留守の、いちばんの収穫だった)


 翌日から、分室には新しい仕事が持ち込まれた。監査院と公証局からの、連名の依頼である。登録制度の仕組みを文書化し、他領の参考に供すること。――つまり、手引きを書く仕事だった。


「先生が、国の制度の手引きを書くんですよ」


 ハンナは目を輝かせたが、私は首を振った。


「私一人では書かない。ペーターには運用の実例を。ハンナには窓口の手順を。市場の声は、登録した人たちに書いてもらう。――制度は、作った者の手を離れて、初めて制度になる。監査官の言葉よ。手引きも、同じだと思う」


 分室の机に、大きな紙が広げられた。章立ての下書き。登録の手順、不受理の記録の付け方、写しの交付、係争が起きた時の紙の開き方。書くべきことは、全部、この一年の日常の中にあった。


 ペーターは、早速、実例の束を作り始めた。堰の交代表の解釈を巡る、自分の対応の記録である。


「先生、失敗したところも、書いたほうがいいでしょうか。注記のない余白のせいで揉めた、という経緯のところです」


「書いて。手引きは、成功の自慢話ではないの。困った時に開く紙だから、困った話ほど要るの」


「……先生の手引きらしいですね」


 ハンナは窓口の手順を、初めて来た人にも分かる言葉で書き直していた。専門の言い回しを、市場の言葉に置き換えていく作業は、地味だが、この領の制度には一番似合っていた。


 三日目の夕方、郵便がまとめて届いた。ミナの私信、両替商ギルドからの領収証の写しの約束を知らせる文、そして――実家の母からの、返事だった。


 私は、その封だけ、最後に開けた。


『セリナ。手紙、ありがとう。元気でいると知れて、安心しました。……新聞で、裁定のことを読みました。あなたの三行が、国の決まりになるのだそうですね。お父様は、新聞を二度読んで、「次女は、記録の人になったな」と言っておりました』


 文面は続く。姉が先日、実家に里帰りして、領の話を聞きたがったこと。家でも、嫁ぎ先との書類は、姉が読み始めたのだとか。そして末尾に、こうあった。


『送ってくれた刺繍布、台所に掛けています。水車と麦の穂。……見るたびに思います。あの日、あなたを送り出す時、お茶の一杯も出さなかったことを。いつか、領の話を聞かせてください。今度は、お茶を用意して待っています』


(母の手紙は、短かった。けれど、書かれていないことのほうが、今回は少なかった気がする)


 私は返事の下書きを、その場で書き始めた。報告ではなく、私信として。今度は長くならなかった。領の話を聞いてもらえる約束ができたのだから、急ぐことは何もない。


 机の引き出しに、母の手紙をしまう。公の記録の棚ではない、私の棚に。記録には、公のものと、私のものがある。どちらも、名と日付のあるものだけを、大事にしまうのだ。


 その夜、片付けの済んだ分室に、レオンハルトが顔を出した。手引きの章立てに目を通し、市場の声の頁で手を止める。


「フォーゲルの爺が、もう文章を寄せたのか。相変わらず、仕事が早い」


「皆、自分たちの制度だと思ってくれていますから」


「……お前の机だな、ここは」


 彼は、分室の窓から市場を見た。店仕舞いの鐘が鳴り、登録証の軒先に、夕日が当たっている。


「裁定も終わった。机にも、戻った」


 レオンハルトは、私のほうを向いた。その顔は、領主の顔でも、依頼人の顔でもなかった。


「――用件ではない話を、してもいいか」


(来た。記録に残らない約束の、順番が)


 心臓が、記録に残らない音を立てた。私は、机の上の手引きの下書きを、静かに裏返した。


「はい。……お聞きします」

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