それぞれの翌日
裁定の翌日、王都の朝は、事件の終わった街の顔をしていた。
監査院の前庭には、もう人波はない。新聞の売り子が「裁定、言い渡し」の見出しを叫び、両替商の店々が、いつもどおりの刻に暖簾を上げる。大きな決着も、街にとっては、昨日の出来事になっていく。
(それでいいのだと思う。暮らしは、裁定を待たずに進む。裁定は、その後ろから、帳尻だけを合わせに来る)
宿を発つ前に、私には会っておく人が二人いた。
一人目は、監査院の別棟の廊下で会った。クランツである。司法の手続きのために、係の者に付き添われて歩いてきた老人は、私を見ると、足を止めた。
「アーレン様。……いえ、公証官殿」
「クランツさん」
「昨日は、ありがとうございました、とは、申せませんな。私の罪は、私のものです。ですが」
老人は、付き添いの者に断って、私の前に立った。背筋は、証言台に立った日と同じく、伸びていた。
「三十年間、あの日誌は、私の首に縄をかけるものだと思って、書いてまいりました。……まさか、その縄が、線を引くための物差しになるとは。昨日、監査官が『考慮されるべき』とおっしゃった時、三十年ぶりに、眠れる気がいたしました」
「あなたの日誌がなければ、実行の責任と、家の責任の線は、引けませんでした。記録は、書いた人を、最後に守ることもあるのです」
「皮肉なものです。あの家で、記録を付けたのは、私と、あなただけでしたな」
クランツは、ふっと笑った。誰かを恨む笑いではなかった。
「司法の席でも、全部、話します。もう、震えることは、ありません」
老人は深く頭を下げ、係の者と歩いていった。三十年、命令に署名のなかった家に仕えた使用人の、最後の背中は、正されていた。
二人目は、両替商ギルドの会館で会った。頭取が、自ら茶を淹れてくれる。
「昨日は、ありがとうございました、とは、申せませんな。商いは商いですから」
(昨日の今日で、言うことがクランツと同じだ。王都の人々は、礼の言い方が不器用らしい)
「ですが、帳面の合う家とは、また商いができます。返済計画が紙の上にある以上、我々も、待つ理由が紙の上にある。……頭取の私が言うのも何ですが、紙というのは、便利なものですな」
「返済の第一回は、来月ですね」
「ええ。その領収証は、写しをそちらへ送りましょう。計画が守られた、という記録もまた、両方に要りますから」
頭取は、私の言葉に深く頷いた。この人は、怒りで家を潰すより、返ってくる金と、残る記録のほうを選んだのだ。商人の道理は、時に裁定より現実的である。
会館を出たところで、思いがけない人物に呼び止められた。
「アーレン様、ですよね」
貴族の母だった。昨日の傍聴席で、娘の手に手を重ねていた人である。傍らには、十六、七の娘が、緊張した面持ちで立っている。
「昨日、全部、聞きました。……私の家にも、走り書きは、あります。夫の実務は、執事任せで。娘の縁談も、進んでいます」
夫人は、娘の手を取った。
「家に帰ったら、まず帳簿を開きます。それと、この子に、教えます。嫁ぐ前に。読むことを。……印を押す前に、読むことを」
「それが、いちばんの備えだと思います」
娘が、小さな声で言った。
「あの、不受理の三行って。……私にも、書けますか」
「書けます。受理しない理由と、自分の名前を、正直に書けば。それだけです」
(断り方は、受け継がれていく。局の若い衆に、市場の人々に、そして、婚家に娘を持つ母たちに。私の三行は、私の手を、とうに離れていた)
宿へ戻る途中、公証局の前を通ると、ミナが石段で待っていた。手には、新しい受理簿の様式の写しがある。
「ほら、これ。あんたの三行が、印刷になった姿よ。お守りに持って帰りなさい」
写しの欄外には、不受理の理由を書く四角い枠が、最初から印刷されていた。かつて私が、余白に手で書いていた三行の居場所が、今は様式の一部になっている。
「……ありがとう。領の分室の、書棚に置くわ」
「感想の手紙、待ってるわよ。私信で、ね。あんたの約束は、記録に残らないんだから」
(残らない約束のほうが、最近の私は、よく守れている気がする。この人にも、この領の人にも)
昼前、宿に戻ると、カスパルが待っていた。
旅装ではなく、普段着に近い装いだった。手には、一通の封書と、小さな箱。
「母からの、文だ。『自分で署名したのだから、自分で届けさせなさい』と、お前に渡された」
封を開くと、短い文だった。名前と、日付のある、夫人の字である。
『裁定の文面、読みました。七年、あなたに読む仕事の全部を押しつけ、その挙げ句に、紅茶一杯も出さずに追い出したことを、この紙の上で詫びます。家は、返済から始めます。私も、計画書に署名した一人として、帳簿を開くところから、やり直します。――いつか、あなたの領の刺繍布を、見せてください』
読み終えて、私はしばらく、文面から目を離せなかった。謝罪は、記録に残る形で届いた。あの家が、私に宛てて、初めて出した、署名のある言葉だった。
「受け取ります。……返事は、文で出します」
「ああ。……それから、これ」
カスパルは、小さな箱を差し出した。中には、北の所領の借地人の名簿の写しが入っていた。返済計画で処分される所領の、借地の条件を引き継ぎ先に明記させるため、彼が作ったものだという。
「裁定官に言われたから、ではない。売る側が、条件を紙にしないで、誰がする。……お前の、受け売りだがな」
「立派な受け売りです」
彼は、困ったように笑った。七年の婚約で、私は彼のこんな顔を、ほとんど見たことがなかった。
「次に会う時は、返済の領収証を持ってくる。それが、俺の持ってこられる、唯一の紙だ」
「お待ちしています。公証官として」
(それでいい。私たちの間にあるべきものは、もう、それで全部だ。紙の上で会い、紙の上で別れる。重さは、もう、置くべき場所に置かれている)
夕方、王都を発つ馬車の用意が整った。レオンハルトは公爵邸での用件を済ませ、門の前で待っていた。
「全部、済んだか」
「はい。会うべき人には、会いました」
「なら、出るぞ。四日かかる。……今度は、帰るための四日だ」
馬車が石畳を鳴らして動き出す。窓の外では、公証局のある通りが、夕日の中を流れていった。二階の執務室の窓に、灯りが点る。誰かが、今日の受理簿を書いているのだろう。
(行こう。次は、私の机が待っている)




