私の署名
裁定から、一月が経った。
領都の朝は、いつもどおりに始まる。関所の帳面は四冊目に入り、市場の登録は百三十件を超えた。王都からは、制度の手引きの小冊子が届いている。表紙には、私の名前はない。ヴァルデン領市場登録制度手引き。制度は、作った者の手を離れて、ただの仕組みとして、他領へ旅を始めたところだった。
最後の頁には、監査院の勧告文が、そのまま載っていた。
『公証の申出については、受理しない場合も受理簿に記録し、その理由および担当公証人の名を明記すること』
(私の三行は、もう私のものではない。けれど、こうして紙の上に残るのを見るのは、悪くない気分だった)
その朝から、分室には新しい顔が増えていた。市場のパン屋の娘で、クララという。字が達筆で、計算が早い。ハンナが「私の後任候補です」と胸を張って連れてきた見習いである。
最初に教えたのは、受理簿の書き方だった。私は分室の受理簿の、最初の頁を開いて見せた。領地公証官としての第一号の記録。私自身の雇用契約の件名である。
「先生。これ、先生ご自身の」
「ええ。ここでは、自分のことも、他人のことも、同じ様式で書くの。名と、日付と、事実だけ。……そして、断る時は、その理由もね」
クララは頷いて、試し書きの行に、震えない字で今日の日付を書いた。新しい書き手の字が、この領の受理簿に増えていく。それが、制度というものの、静かな増え方だった。
午前中、分室に、両替商ギルドからの郵便が届いた。返済の第一回、滞りなく納付された旨の通知と、領収証の写し。末尾の日付も、金額も、計画書の工程表と、一分の狂いもなく合っていた。
添えられた頭取の走り書きには、こうあった。『計画は、紙の上だけのものではなかったようですな』。
(よかった。あの家の再出発は、まず、一回分だけ、本物になった。続くかどうかは、これからの帳簿が教えてくれる)
私は領収証の写しを、綴りの最後に綴じた。ベルモント家の綴りは、これで四冊目になる。最初の一冊は、あの家のために作った記録だった。今度の頁は、あの家が約束を守った記録である。
昼前、小さな騒ぎが起きた。
市場の登録更新に来た若い商人が、古い仕入契約の写しを持ち込んで、ハンナに迫っていたのである。
「日付が一日ずれてるだけだ。書き直す手間を省いて、この写しのまま登録してくれればいい。誰も困らない」
「困ります」
ハンナの声は、震えていなかった。
「日付のずれた契約は、係争の時に、どちらにも使えません。新しい正本を、相手方と作り直してください。今日の申出は、理由を付けて、受理簿に記録します。――不受理の時は、理由と担当の名を書く決まりですから」
(私の声ではない。私の教えた手順でも、もう、ない。あの子自身の言葉だった)
若い商人は、初めは不満げだったが、ハンナが根拠の条文を小冊子で示すと、観念したように頷いて、正本の作り直しの予約を入れて帰っていった。分室の扉が閉まってから、ハンナは深く息を吐いて、私を見た。
「先生。……言えました。震えずに」
「ええ。立派だったわ」
私は、口出しをしなかった。しなくてよかったのだ。断る仕事は、孤独ではなくなった。三行は、次の書き手の机の上で、もう生き始めている。
午後には、フェルト村の青年の祝言の届出が、本式に提出された。相手はミーレ村の娘。両村の村長が、連名で保証人の欄に署名している。四十年水を争った二つの村の名が、祝いの紙の上に、並んでいた。
「先生、受理印を」
ハンナに促され、私は印ケースを開けた。直してもらった留め金は、かちりと確かな音を立てる。受理印が、滞りなく押された。
夕方、レオンハルトが分室に寄った。手引きの小冊子を一部、持って帰るのだという。
「他領の領主連中が、欲しがっている。先に回覧する分だ」
「名前の出ていない手引きを、自慢なさるのですか」
「名前など、要らん。仕組みのほうが、長く歩く」
彼は帰り際、いつもの問いを口にした。
「明日の朝は」
「九時に、分室です。用件でも、用件でなくても、お待ちしています」
少しずつ、こういう会話が、私たちの日常になっていく。雇用主と部下の線は、紙の上に残ったままだ。けれど、その線の上で、私たちはもう、対等に立っている。並んで歩く歩幅が、自然に合うようになった。
(劇的なことは、何も起こらない。起こらなくていい。これが、私の勝ち取った日常の形なのだ)
日が落ちる前に、私は一通の私信を書いた。ミナ宛である。水車の話と、市場の話と、新しい見習いの話。公文書ではない、約束の手紙だ。封をして、郵便の束のいちばん上に置く。記録に残らない約束も、今の私なら、ちゃんと守れる。
日が落ちて、分室の灯りが一つになった。私は今日の受理簿の、最後の一行を書いた。
――本日、登録更新十一件。不受理一件、理由を明記し、申出人に写しを交付。祝言の届出、一件、受理。
ペンを置く前に、私は少しだけ、昔のことを考えた。王都の二階の執務室で、叩きつけられた書類を押し戻した日を。読んでいない書類には印を押さない。その一文が、私の婚約を終わらせ、私を辺境へ連れてきて、制度の言葉になり、次の書き手へ渡っていった。
(怖かった日々も、震えた手も、全部、記録の上に残っている。それで、十分だ)
署名の前に、もう一つだけ。机の隅には、夕方にレオンハルトと並んで読んだ、明日の市場の会議資料が、付箋を付けて重ねてある。決める前に読む。決めたら書く。あの人の領の作法は、いつの間にか、二人の作法になっていた。用件の書類を読む隣で、時々、用件ではない話もする。麦穂の飾りは、もう季節ではないけれど、私の机の引き出しの中で、栞と一緒に眠っている。
(暮らしとは、たぶん、こういう重なり方をするものなのだろう。大事件ではなく、署名と、付箋と、並んで読む夕方の、積み重ねで)
私は、受理簿の末尾に、いつもの筆跡で署名した。
――セリナ・アーレン。




