第一声
公開裁定の朝、監査院の前庭には、傍聴の抽選に漏れた人々までが詰めかけていた。
両替商の番頭らしい男たち、若い公証人の一団、娘を連れた貴族の母。伝達の係が中庭に立ち、席の中で読み上げられる書類の名を、その都度外へ告げる手はずになっていた。紙の上の出来事を、紙の届かない場所の人々が待っている。――七年前、あの家の応接間で、私はその「紙の届かない場所」に立っていた。
(今日、その場所に、誰も立たせない。席の中で起きることは、全部、名と日付のある記録になる)
大審問室は、審問の部屋とは比べものにならない広さだった。天井は高く、裁定官の席が半月形に並ぶ。中央に主席監査官オルト。その両脇に、監査院の裁定官が四人。傍聴席は三百を超え、壁際には書記官の席が連なっていた。
証拠の席には、六つの束が置かれていた。五つの争点の束と、制度の束。ペーターの作った対応表は、一枚の大きな紙のまま、束の上に載っている。書類袋の革紐を解く時、私の指先は震えなかった。袋の中には、栞も一本入っている。市場の人々のお金で買われた、水車とペンの刺繍の栞が。
家の側の席には、カスパルが座っていた。代理人を脇に置かず、一人で、まっすぐに前を見ている。『当日、席で会う。逃げない』。あの二行のとおりの姿だった。夫人の席は、空だった。けれど、その空席の意味も、今は分かる。読んだ上で、今日は息子の背中を見ないと決めた人の、空席である。
領主の席には、レオンハルトが座っている。制度の聴取で呼ばれるまでは、ただの列席者として。この人もまた、持ち場を守っていた。
「これより、ベルモント家契約不正事件に関する、公開裁定を開く」
オルトの声が、天井に響いた。
「本日の席は、誰かを辱めるためのものではない。記録を、公の目で検め直すための席である。発言は、すべて議事録に残る。――名前のない言葉は、この席では、存在しないものとする」
(名前のない言葉は、存在しない。……あの家の「仕組み」が、七年かけて守ってきたものと、真逆の宣言だった)
「第一声の証人、アーレンを前に」
私は証人席に進み、名乗った。セリナ・アーレン。元、王都公証局公証人。現、ヴァルデン領領地公証官。
「証人は、本件の出発点となった書類の、受理を拒んだ当人である。――その日のことを、時系列で述べよ」
私は、書類袋から一枚の写しを取り出した。受理簿の、例の三行である。
「その年の三月十二日、午後。ベルモント伯爵家の嫡男、カスパル・フォン・ベルモント氏が、抵当設定契約書の公証を申し出ました。抵当は、領地の穀物倉庫。署名欄の日付は、三か月前とされていました」
声は、自分で思っていたより、よく通った。
「私は、その場で書類を読みました。第一に、様式の不整合です。この契約書に使われていた様式は、前月に公布されたばかりの新様式でした。三か月前の日付の書類には、存在しない様式です。第二に、抵当物件の不整合です。穀物倉庫については、先々月、火災による焼失の届出が公証局に出されており、私自身が受付印を押していました。焼失した倉庫を、焼失前の日付で抵当に差し入れる契約は、受理できません」
傍聴席が、静かにざわめいた。伝達の係の声が、扉の向こうで上がるのが聞こえた。
「私は申し出を断り、その日のうちに、受理簿に記録しました」
私は三行を、読み上げた。本日午後、ベルモント伯爵家より抵当設定契約書の公証申出あり。様式と日付の不整合のため不受理。申出人、苦情を予告して退室。
「……以上が、私の記録した三行です。この三行には、感情は書かれていません。あったことと、しなかったことだけが書かれています」
裁定官の一人が、身を乗り出した。
「その後の経緯を、その三行はどう証明する」
「証明するのは、三行だけではありません」
私は対応表を広げた。争点ごとに、書類の名と日付と、証明する内容が線で結ばれた、ペーターの地図である。
「この三行の日付は、その後見つかったすべての記録の、起点になります。元執事長クランツの執事日誌には、翌日の日付で『申出を拒否。やむなし。箱を使うこととする』とあります。家の帳簿には、火災の翌月に、抵当契約に相当する入金が記録されています。私の三行は、その二つの記録の、ちょうど真ん中にあります。――記録は、一つでは弱い。並べれば、誰の目にも、時系列は動かせません」
「その日誌とやらも、後から作られた可能性は」
別の裁定官が、静かに問うた。
「日誌は、三十年にわたり、家の内部で付けられてきたものです。私の受理簿とは、書き手も、場所も、目的も違います。互いの存在を知らずに書かれた二つの記録が、一日の狂いもなく重なる。――後から作られた記録は、知らないはずの他人の記録と、重なりようがありません」
(私の記録は、私を守るためだった。クランツの日誌も、彼を守るためだった。守るために書かれた記録同士が、こうして公の席で、手を取り合う。……記録とは、そういうものなのだろう)
家の代理人が、初めて口を開いた。
「証人の記録は、婚約を破棄された当人の手によるものだ。私怨による改竄の可能性を、どう排除する」
「改竄は、できません」
私は、写しの束をもう一つ掲げた。
「この受理簿は、公証局の正本から取った写しです。正本は局に保管され、局長が証人として、保管の経緯を証言します。私の手元にあるのは写しだけであり、正本の日付と記載は、局の別の職員の筆跡鑑定でも一致が取れています。――私怨で書かれた記録は、他人の記録と、ここまで揃いません」
オルトが、静かに頷いた。
「時系列の土台は、確定したものとして扱う。異議は」
「……ありません」
代理人は、座った。傍聴席のどこかで、小さく息を吐く音がした。
(最初の山は、越えた。私の三行は、私の言葉ではなく、この席の、共通の土台になった)
オルトは議事録への記載を確認し、それから次の束に手を伸ばした。争点番号、一の札のついた束である。
「では、本題に入る。四件の契約、および抵当設定契約一件。日付の偽りが確定したとして、その書類の効力はどうなるのか。そして、その書類で動いた金は、どう始末するのか。――次に、問うのは、それである」




