名前のある書面
ベルモント伯爵夫人が領都に着いたのは、面会の申出から五日目の昼だった。
面会の場所に公館の応接間を充てることは、レオンハルトが申し出てくれたものだった。前の晩、彼は言った。
「お前の分室で会えば、公証の手続きと混ざる。あの人を迎えるのは、裁くためではないはずだ。……場所で、距離を示せ」
「閣下は、同席なさいますか」
「しない。今日の席に、領主は要らん。――お前は告訴人ではない。その距離を、今日も保て。それだけだ」
(いつも、この人は一歩引いて、私の仕事の形を守ってくれる。前に出るべき時には、誰より前にいるのに)
面会の場所は、公館の応接間にした。分室の机ではない。公証の手続きとしてではなく、記録の残る私的な面会として受ける以上、場所も中立であるべきだった。書記はペーターが務める。冒頭、私は告げた。
「本日の面会は、ご本人の申出により、記録を作成いたします。終了後、写しをお渡しし、内容の確認の署名をいただきます。よろしいですか」
「……はい。そのつもりで、参りました」
夫人は、七年ぶりに間近で見る姿だった。黒に近い濃緑の装いで、装身具は一つもない。私の知る伯爵夫人は、宴のたびに宝石を替える人だった。その人が、何も着けずに、領都の応接間に座っている。
(この人の前で、私は七年、給仕の列の端に立っていた。茶を運び、書類を運び、「セリナは気が利かなくて」と笑われるのを聞いていた。――今日、その人が、私の机の向かいにいる)
「まず、言わねばならないことがあります」
夫人は、膝の上の手を見たまま言った。
「裁定の席で、私は列席を取りやめました。……カスパルの証言の写しを、読んだのです。全部、読みました。あの子が言ったとおりでした。家の書類を、読んだことが、なかったのは私です」
ペーターのペンが、規則正しく動いていた。
「夫が亡くなってから、家の実務は、すべてクランツに任せました。あの人は、先代から仕えた人でしたから。……署名のない走り書きで用件を伝えたことも、認めます。『いつもの段取りで』。私が書いたものです。書いた当人は、内容を分かっているつもりでいました。何が『いつもの』なのかも、確かめずに」
「なぜ、確かめなかったのですか」
聞いてから、私は少し後悔した。証人への問いではない。だが夫人は、顔を上げて私を見た。
「怖かったのだと思います。読めば、家の傾きが、数字で分かってしまう。……あなたは、逆でしたね。怖くても、読む人でした」
静かになった。窓の外では、市場のざわめきがかすかに聞こえた。
「あなたが我が家に来た日を、覚えています。アーレン子爵家の次女、公証人の資格を取ったばかりで。……私は思いました。『よく働く子だ。家の実務は、あの子に任せれば安泰だ』と。婚約という形で、あなたを家に縛り、七年間、読む仕事の全部を押しつけました。娘として迎えたのではない。都合のいい、実務の手として迎えたのです」
(分かっていた。ずっと前から、分かっていたことだ。けれど、本人の口から、本人の名前で言われると、胸の奥のどこかが、静かに疼いた)
「裁定で、家がどうなるかは、監査院が決めることです。私は、告訴人ではありません。……夫人のお話は、記録として、ここに残ります。それ以上のことは、私には言えません」
「分かっています。今日来たのは、許しを請うためではありません。……いえ、本当は、そうなのかもしれません。ただ、あなたに伝えたかったのは、一つだけ」
夫人は、初めてまっすぐに私を見た。
「カスパルは、返済の計画書を、私のところへ持ってきました。別邸と北の所領を売る、という話です。私は、読みました。分からないところは、あの子に聞きました。……そして、署名しました。初めて、読んだ書類に、自分の名前で」
彼女の目に、涙はなかった。あるのは、遅れてきた者の、静かな疲れだった。
「あなたが家を出た日、私は言いました。『紙くずなら、勝手に持っていけばいい』と。あの紙くずが、今、王都の監査院で、家の真実を語っています。……セリナさん。あなたは、正しかった。それを、裁定の前に、私の口から言っておきたかった」
私は、しばらく言葉が見つからなかった。公証人としての言葉なら、いくらでもある。だが今、この人の前にいるのは、公証人である前に、七年あの家にいた私だった。
「……夫人の署名した計画書は、裁定の席で、家の再出発の根拠になります。読んで、署名した。その事実は、記録に残ります。……私の三行と同じように」
「そうですか」
夫人は目を伏せ、やがて、小さく頷いた。
面会は、四十分ほどで終わった。ペーターが清書した議事録を読み上げ、夫人は一字ずつ確かめるように目で追い、最後に署名した。名前と、日付。その手は、震えていなかった。
「写しを、お持ちください。あなたが今日、ここで話したことの記録です」
「……ありがとう。持って帰ります。そして、読み返します」
(読む、という言葉が、あの家の人の口から、これほど自然に出る日が来るとは)
夫人が帰った後、私は応接間に少し残った。ペーターが議事録を綴じながら、ぽつりと言う。
「先生。……あの方、謝りに来たんですか」
「謝罪と、報告と、宣言と。その全部だと思う」
「議事録の種目欄、何と書けば」
「『面会記録』でいいわ。……あの人の名前で、きちんと綴じて」
夕方、公館へグレゴールが来て、面会の済んだことを確認した。それから、思い出したように一通の封書を差し出した。王都の監査院からの、急ぎの便だった。
中身は、制度の聴取に関する正式な質問書だった。登録制度の仕組み、運用の記録、係争の推移、そして――「制度の担い手である公証官が、不正の申出を拒んだ経緯と、その記録の扱いについて」。回答の提出期限は、裁定の七日前。私の三行が、制度の話の入口に、公の文書で置かれていた。
(裁定まで、十日。――今度は、私の仕事そのものが、問われる番だ)
私は窓の外を見た。市場の軒先で、登録証が夕日を受けていた。百十二件の暮らしの約束が、明日の私の回答の、裏付けになる。




