帰る場所の灯り
四日目の夕方、馬車が領境の峠を越えた時、私は思わず身を乗り出した。
谷の向こうに、領都の灯りが見えたのである。祭りの提灯ほど賑やかではない、夕餉どきの、家々の窓の灯り。その一つ一つが、暮らしの灯りだった。
(四日前、この道を、私は証人として下っていった。今は、帰る人として上っている)
関所では、番人が馬車を認めるなり、帳面を開いて通行を記録し、領収の小札に印を押して寄越した。私の分室の印ではない、関所自身の印である。半年前は、印などというものの存在しなかった場所だ。今は、番人の若い衆が、押し損じがないか小札を光に透かして確かめてから、手渡してくれた。
「先生、お帰りなさい。……関所の帳面、先月から三冊目に入りました」
「ご苦労さま。記録は、領の財産よ」
領都の門をくぐると、まず市場の灯りが目に入った。店仕舞いの時間だというのに、フォーゲル織物店の前には何人もの影があった。馬車の音に気づいた店主が、店先まで出てきて、深々と頭を下げる。リーザの刺繍小物の店では、若い娘が閉店の札を掛けながら、こちらに手を振った。登録証を掲げた店の軒先を、馬車はゆっくりと抜けていった。
公館の前庭には、人が集まっていた。
グレゴールが最前列に立ち、その横にハンナとペーター。後ろには両村の顔も見える。馬車が止まるが早いか、ハンナが駆け寄ってきた。
「先生! お帰りなさい! 証言は、どうでした――いえ、まずお疲れさまでした、ご無事で何よりで……」
「ただいま、ハンナ。……泣いてるの?」
「泣いてません! これは、その、夕日のせいです!」
ペーターはその横で、背筋を伸ばして立っていた。手には、革表紙の新しい綴りがある。
「先生。約束どおり、やりました。出立の日の日誌の写しを、原本と一緒に綴じたんです。これで、写しのままでは終わりませんでした」
「ありがとう、ペーター。……いい綴じ方ね」
「何度も練習しました」
グレゴールが一歩進み出て、深く頭を下げた。
「お帰りなさいませ、先生。王都でのお役目、ご苦労様でございました。……留守の間、分室は一日も休みませんでした。老骨も、少しは帳面の番を」
(この人たちが、私の留守を守ったのではない。自分たちの持ち場を、守ったのだ。――それが、いちばん頼もしい)
翌日から、分室は日常に戻った。
朝の受理は、相変わらず並ぶ。市場の登録更新が三件、両村の堰の番の交代表の届出が一件、行商人の仮登録の本登録への切り替えが一件。ハンナの集計では、登録の総数は百十二件になっていた。百を超えた、というあの手紙の数字から、王都へ行っている間にもう十件以上増えている。
「先生が戻ったら見せようって、ペーターが毎日、数えてたんです」
「数えるだけじゃありません。登録簿の余白に、市場の声も書き留めてあります。『証人登録で、番の揉め事が消えた』とか、『仮登録のあと、王都の商人が安心して買っていった』とか」
「……証言の束になるわ、それは」
何気なく言った自分の言葉に、私ははっとした。
登録は、暮らしの仕組みであると同時に、この領で何が変わったかを語る、記録の束でもあったのだ。数字と、声と、日付と。それは私の三行と同じで、感情を排した分だけ、誰にも曲げられない。
昼過ぎには、フェルト村の若い農夫が分室に来た。春に堰の流木の件で製粉所の親方と言い争った、あの青年である。今度は、水の番の表を持ってきたのではなかった。手には、結婚の届出の相談票があった。
「先生、秋に祝言を挙げるんです。相手は、ミーレ村の娘でして」
「……あら」
「堰の番で、顔を合わせるようになって。喧嘩の仲裁が縁だなんて、親方は笑いますけど」
(水を分ける表の上で始まった縁が、今度は、二つの村を結ぶ)
私は相談票に日付を書き、必要書類の目録を渡した。青年は帰り際、照れたように言った。「式の席次は、先生に決めてもらいたいんです。両村の誰もが文句のつけようのない席次を」。――それは、この領で最大級の信頼の言葉だったのかもしれない。
夕方、レオンハルトが分室に現れた。机の上の登録簿と、青年の相談票とを一目見て、言う。
「戻って早々、祝言の相談か」
「領の暮らしは、止まりませんから」
「……お前は、証言台の上より、この机の方が似合っている」
「閣下、それは」
「誉め言葉だ」
彼は窓の外の市場を見た。店仕舞いの鐘が鳴り、軒先の登録証が夕日を受けている。
「裁定の日は、まだ決まらん。王都の方は、記録の量に手を焼いているらしい。……だが、決まれば、今度は公開の席だ。傍聴の目がある場所で、お前の記録は、最後の検めを受ける」
「はい」
「怖くは、ないか」
私は、机の引き出しから、直してもらった印ケースを取り出した。指先で開け、閉める。かちり、と留め金が鳴る。この音のする限り、私は大丈夫だと思えた。
「怖くない、とは言いません。けれど――私の記録は、人が見ていないところで書いたものではありません。いつ誰に見られてもいいように、最初から書いてきたものです。公開の席は、その確かめ直しにすぎません」
(震えた手で書いた三行も、誰かの目を意識して書いたのではない。それでも今、その三行は大勢の目の前で読み上げられることになる。……それで、いいのだと思う。記録とは、もともと、未来に読まれるためにあるのだから)
レオンハルトはしばらく黙って私を見て、それから、ごく短く言った。
「――頼もしいな、セリナ」
その夜、私は受理簿に、帰領の日の記録を書いた。証言の報告ではなく、ただの日誌として。王都照合終了。帰領。登録総数、百十二件。祝言の相談、一件。
書き終えてペンを置いた時、門の方で馬の嘶きが聞こえた。王都からの、急使の馬である。衛兵が駆け込んできて、封書を差し出した。監査院の封蝋。主席監査官オルトの名で、私と、そして領主レオンハルトに宛てた招集状だった。
――公開裁定の日取り、確定。来月、第一週。王都、監査院大審問室。傍聴、公開。合わせて、ヴァルデン領の登録制度に関する報告聴取を行う。
私は招集状を二度読んで、静かに受理簿の新しい行に書き込んだ。
公開裁定の期日、通知あり。
手は、震えていなかった。




