母への手紙
帰領の前日、私は宿の小さな机に向かい、母への手紙を書いた。
最初の一通は、長くなりすぎた。審問のこと、記録が証拠になったこと、局の規則が変わったこと。書き連ねるうちに、それは報告ではなく、弁解のようになっていった。「あの日、私は間違っていなかった」と、どうしても言いたがる手紙だった。
(違う。母に書きたいのは、それではない)
私はその一通を、静かに破いて暖炉にくべ、二通目を短く書いた。
『お母様。セリナは、ヴァルデン領で元気に暮らしております。領地公証官という勤めを得て、机と、書棚と、一緒に働く人たちに恵まれました。食事は摂っておりますし、住まいも暖かです。心配をかけたまま、出てしまったことを、詫びます。姉さんにも、よろしくお伝えください。落ち着いたら、領の刺繍布を送ります。――セリナ』
書かなかったことが、多かった。家の顛末は、王都の噂が母の耳にも届けるだろう。だが、この手紙は、その話のために書くのではない。破談の報せに、お茶の一杯も出なかったあの日のことも、書かなかった。元気でいる、とだけ。それだけで、十分なはずだった。
封をして、宛名をもう一度確かめてから、宿の主人に郵便を託す。手が離れた瞬間、肩のどこかが、少しだけ軽くなった気がした。
(手紙というのは、不思議なものだ。読む側のために書くのに、書いた側の方が、先に救われる)
郵便を出しに宿を出た帰り、私は実家のある通りの角まで来て、足を止めた。門の前の石段も、塀の色も、記憶のままだった。――今日は、入らない。手紙は、もう出した。会うための準備は、母にも、私にも、まだ要るのだと思う。
昼には、レオンハルトと二人、王都での最後の用件を片付けた。
まず、公証局である。ヴェルナー商会との契約は、領での調印を済ませていたが、王都の商会との契約には、こちらでも正式な届出が要る。局長自らが届出を受理し、登録の印を押した。
「領の契約書が、王都の公証局に届けられる。……半年前には、考えられなかったことだ」
「閣下の領の産品が、正規の紙で王都と結ばれたということです」
局長は届出の控えを私に返しながら、ぽつりと言った。
「記録のある領は、強い。……その言葉、今はよく分かる」
「局長」
「行け。向こうで待っている人たちがいるのだろう」
受付では、ミナが届出の写しに受領印を押し、「これで、向こう五年の商いは紙の上で守られるわね」と笑った。ついこの間まで、私が押していたのと同じ印だった。
帰り際、ミナは私を局の扉の前で引き止め、小さな包みを押しつけた。文具屋の新しい便箋だった。
「帰ったら、手紙ちょうだい。公文書じゃなくて、私信でね。あんたの字で、領の話を読みたいの」
「……書くわ。水車の話と、市場の話を」
「約束したわよ。記録に残らない約束は、しない主義なんでしょう」
「ええ。だから、必ず書く」
もう一件は、監査院だった。市場の登録制度について、レオンハルトが領主として提出する報告書である。彼は重い書類の束を、自分で抱えて階段を上った。
「領主本人が、書類を運ぶとはな」
「君に教わった。決めたら書く。書いたら、自分で持っていく」
オルトは報告書を受け取り、表紙の数字――登録件数と、係争の減少の推移――に目を留めて頷いた。
「登録が、百を超えたそうだな。係争の方は」
「市場の係争は、登録の始まる前と比べて、半分以下になりました。残る相談の大半は、昔の取り決めを確認したい、というものばかりです」
「揉め事が、確認に変わった、か。……それが制度というものだ」
(私の三行が規則になった街で、今度は、私の領の制度が資料になる。記録というものは、置いた場所から、静かに広がっていくのだ)
「監査院でも、公証と登録の仕組みの見直しが、議題に上がり始めている。地方の領の実例は、得がたい資料になる。……公証官殿、裁定の席では、制度の話も聞かせてもらうかもしれん」
「私で、お役に立てるなら」
(裁判の証人として来た街で、制度を作る側の言葉まで求められる。半年前の私には、想像もつかなかったことだ)
宿に戻ると、帰りの荷はもう整っていた。証言のために抱えてきた謄本の束は、役割を終えて、往路より軽くなっている。残った荷は、着替えと、刺繍の書類袋と、直してもらった印ケースだけだった。
夜になって、レオンハルトが宿の玄関先に顔を出した。出立の時刻の確認だった。
「明日の馬車は、夜明け前だ。寝坊はするな」
「公証人は、朝には強いんです。それに、明日の私は証人ではなく、ただの帰り道の人ですから」
「……その顔の方が、いい」
彼はそれだけ言って、王都邸へ戻っていった。証言の重荷が下りた顔を、この人は見分けたらしい。
翌朝、まだ暗いうちに馬車が出た。宿の女将が玄関先で、握り飯の包みを持たせてくれる。「証人様の顔じゃ、もうありませんね」と笑った。そのとおりなのだろう。今朝の私は、領へ帰る、ただの公証人だった。
レオンハルトは馬に乗り、往路と同じように随行してくれる。
王都の城壁を抜ける時、私は一度だけ振り返った。半年前の私が、綴りを抱えて出ていった街。その街の規則の帳面には、今、私の三行が印刷されている。
(もう、追い出される街ではない。用件のある街だ。それで、いい)
馬車の中で、私は手帳を開いた。出頭の頁は、もう埋まっている。同行者の欄も、埋まっている。新しい頁に、私は帰りの予定を書き込んだ。四日目に、領都。分室の机。待っていてくれる人々。
往路の私の荷物は、写しの束と、不安とで重かった。復路の荷物は、報告書の控えと、ミナの便箋と、帰りを待つ人たちの手紙。同じ馬車なのに、重さの質がまるで違う。
最後の一行に、こう書いた。
『王都での用件、すべて終了。帰る』
書き終えて顔を上げると、窓の外では、朝の光が野を渡っていくところだった。四日も走れば、あの光の向こうに、水車の回る領都が見えてくる。




