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四つの印

 二度目の審問の日、最初に審問室へ入ってきたのは、証拠品の木箱だった。


 書記官が両手で運んできた箱の中には、布に包まれた印が四つ。死去した公証人たちの名が、それぞれの柄に刻まれている。主席監査官オルトは箱を机の端に置かせ、それから扉の方を見た。


 家の側の席には、法務代理人と家令格の男だけが座っている。当主一家の姿は、今日もなかった。


「証人、クランツを入れてください」


 連れてこられた老人は、痩せてはいたが、背筋は伸びていた。先代の頃からベルモント家に仕えた、元執事長である。髪はきちんと撫でつけられ、着ているものは粗末でも、襟元だけは正されていた。使用人の、最期の意地のようなものだった。


(あの家で、私の向かいに座ったことのない人だ。様式の相談で局には来たが、きちんと顔を合わせて話すのは、今日が初めてかもしれない)


 クランツは証人席に着く前に、懐から一冊の帳面を取り出した。革の表紙の、使い込まれた帳面だった。


「審問官。証言の前に、これをお渡しします。私の、執事日誌です。――全部、話すと決めました。話すからには、私の記録も、全部です」


 審問室が、小さくざわめいた。家の内部から、記録が出てくる。それも、提出命令の出ている帳簿とは別に、使用人の手で付けられていた一冊が。


「いつから付けていた」

「三十年ほどに、なります。……命令は、全部口頭でしたから。何かあった時、切られるのは私だと、分かっておりました。自分の身を守るために、書き始めたものです」


(命令を紙に残さない家で、唯一記録を付けていたのは、使用人だった。――記録は、立場の弱い者の盾になる。私が受理簿に三行を残したのと、同じ理由で)


 証言は、印の出所から始まった。


「最初の印は、私の前の執事長から、箱ごと引き継ぎました。あの箱は、家の『仕組み』の一部だったのです。先々代の頃、家の財政が傾き始めた折に、誰かが始めたのでしょう。……残りの三つは、私が手に入れました。家と縁のあった公証人の方が亡くなるたび、ご遺族のもとへ伺い、『道具一式を、形見として譲ってほしい』と。形見分けの名目で、銀貨も渡しております。日誌に、日付と金額を記してあります」


「何のためだ」

「日付を、遡らせるためです。書類の作成日とされる日に、その印の主が生きていれば、誰も疑いません。……亡くなった後も、しばらくは同じです。印は、人の死を告げませんから」


 淡々とした声だった。初めて箱を使った時のことを問われると、老人の手が、わずかに震えた。


「最初の時は、手が震えて、印が傾きました。……ですが二度目は、震えませんでした。人間とは、そういうものです。震えなくなることが、一番の罪だと、今は思います」


 主席監査官が「当主一家の関与は」と問うた時、老人の声は初めて揺れた。


「……『その印を使え』と、はっきり命じられたことは、一度もありません。あるのは、『例の方法で、手続きを早めておけ』という言葉と、ご夫人の『よしなに』というお返事だけです。先代様の頃から、ずっとそうでした。誰も、中身を読みません。誰も、問いません。だから、続いたのです」


 クランツは、言い添えた。命令は、口頭だけではなかった、と。夫人の机からは、時折、署名のない走り書きが届いたという。『例のとおりに』『いつもの段取りで』。紙ではあっても、名前のない紙だ。名前がなければ、それが誰の命令だったかは、永遠に分からない。


(記録とは、名前と日付のあるものだ。あの家に欠けていたのは、まさにそれだった。自分の出す命令にさえ、あの家は署名をしなかったのだ)


(読まない家。誰も読まないから、誰の罪とも言い切れない。それが、あの家の病の正体だった)


 審問の半ば、オルトは私に、日誌の一部の照合を求めた。頁を繰る私の手が、ある一行で止まる。今年の、あの日の翌日の日付だった。


『アーレン嬢、申出を拒否。やむなし。箱を使うこととする』


(……あの日の、私の三行の裏側に、この一行があった)


 私は日誌と、自分の受理簿の写しを並べ、日付が一致することを、淡々と述べた。声は、震えなかった。震えていたのは、たぶん、別のものだった。


 オルトは、続けて今年の抵当の書類についても問うた。用意したのはクランツで、間違いないという。


「ですが、若様は言いました。まずは正規の窓口でやってみる、と。……アーレン様が、局で一番融通の利かない方だとは、存じておりました。断られれば、箱を使う。それが、いつもの段取りでした」

「では、あの申出は、最初から断られることを見越して」

「はい。――お嬢様の原則が、家の『段取り』の中に、組み込まれていたのです」


(断られることまで、段取りだった。私の「断る力」は、あの家の中でさえ、歯車の一つとして数えられていた。……それでも私は、断ってよかったのだと思う。その歯車が、最後に全体を止めたのだから)


 休廷の間際、クランツは証人席から、私の方を見た。


「アーレン様。……あの書類を用意したのは、私です。お嬢様の原則を、知っていて、それでも用意した。申し訳、ありませんでした」

「クランツさん。謝罪は、議事録に残ります。それで、十分です」


 彼は深く頭を下げた。三十年、家の影を一手に引き受けてきた老人の背中は、思っていたよりずっと小さかった。


 その日の審問は、こう締められた。印の入手経路と、使用の実態は、証言と日誌により確定した。残るのは、当主一家が、どこまでを知っていたか。その答えは、明日、カスパル本人の口から聞くことになる。


 審問室を出ると、石段の下でレオンハルトが待っていた。


「どうだった」

「印の出所と、使われてきた経緯は、確定しました。……残るのは、人の話です」

「そうか」


 彼は頷き、それ以上は聞かなかった。


 廊下に戻る途中、私は足を止めた。窓際の光の中に、カスパルが一人で立っていたのである。私に気づき、彼は短く言った。


「……日誌は、読んだ」


 それだけ言って、彼は審問室の方へ歩いていった。明日の証言台に立つ男の、背中だった。

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