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三行の記録

 監査院の審問室は、天井が高く、声がよく響いた。


 長い机の向こうに、主席監査官オルトと二名の監査官、そして書記官。右手の席にはベルモント家の法務代理人と、家令格の男。傍聴に近い列席席には、公証局長と――カスパルがいた。証人席から、彼の顔が見えた。領都で会った時より、さらに痩せている。


 最後尾の席には、レオンハルトが座っていた。腕を組み、目を閉じているようにも見える。だが、あれは眠っているのではない。必要な時まで、一切口を挟まないつもりの顔だった。


(私は、告訴人ではない。証人だ。――重荷は、紙だけに)


 宣誓の後、審問官が言った。


「証人アーレン。本件に関する記録の時系列を、提出資料に沿って述べてください」

「はい」


 私は書類袋から、一番目を取り出した。


「一昨年の、ベルモント伯爵家による屋敷改修費の借入契約について。この契約書が作成されたとされる日付は、様式の公布より半年前です。しかし書類に使われているのは、公布後の新様式です。――日付と様式が、合いません」


 二番目。


「新様式の公布に先立つ年の春、王都公証局に、様式の公布日と旧様式の扱いについての相談が寄せられています。申出人は、ベルモント家の執事長、クランツ氏。応対したのは私で、相談の記録は局の受理簿に残っています。つまり家の実務担当者は、新様式がいつから効力を持つかを、正確に知っていたことになります」


 席が、ざわりと動いた。代理人が身を乗り出す。


「異議を。相談の事実と、偽造の意思は、別の話です」

「意思の話は、しておりません」


 私は代理人ではなく、審問官を見た。


「申し上げているのは、記録の順番だけです。――三番目を」


 三番目は、あの日の三行だった。


「今年、ベルモント家から私のもとに、抵当設定契約書の公証の申出がありました。抵当は、先々月に火災で焼失した穀物倉庫です。私は様式と日付の不整合を理由に、受理いたしませんでした。その記録が、この三行です。――しかし後日、同一の契約は成立しています。押されていたのは、昨年死去した元公証人の印でした。亡くなった方の印が、死後に契約書へ押されることは、ありません」


 静寂が落ちた。書記官のペンの音だけが、やけに大きく聞こえた。


 代理人が立ち上がった。


「審問官。証人の提出する『控え』なるものの信憑性について、強く疑義を申し立てます。証人は、ベルモント家との婚約を一方的に破棄された女性です。その私怨をもって、控えを――後から都合よく作り替えた可能性を、否定できません」


(来た。――局長の走り書きのとおりに)


 私は、予定していた束から、二通を取り出した。


「一通目は、婚約解消の確認書です。双方合意、慰謝料その他の請求は、双方とも行わない。署名は、カスパル様ご本人と、伯爵夫人のものです。……私怨で動く人間は、まず金か地位か、対価を求めるはずです。私は何も求めませんでした。求めなかったことが、ここに記録されています」


 カスパルの席で、小さな音がした。彼が、机の縁を握りしめた音だった。


「二通目は、王都公証局長の保管証明書です。私の控えの各頁は、作成当時の局の受理簿と、通し番号・日付の双方で連続して整合しています。後から作れば、番号の連なりは必ず綻びます。――綻びは、どこにもありません。局長ご本人も、列席しておられます」


 局長が、静かに頷いた。


 代理人はなおも食い下がった。


「では、最後に。仮に書類の不整合があったとして、当主一家は実務を執事長に一任しており、不正は知らなかった。これが家の公式の見解です。証人の記録は、その一点を崩せますか」


(知らなかった。――あの家の、防ぎ方。読まないことが、免罪符になる)


 私は、最後の束を解いた。


「一通、提出いたします。先月、私の分室で行われた公式面会の議事録です。面会者はカスパル・フォン・ベルモント様。発言はすべて記録する旨、冒頭でご本人に告知し、終了後、写しへの同席確認の署名もいただいています」


 書記官に渡し、該当の頁を開かせる。私は、そこに書かれた彼の言葉を、そのまま読み上げた。


「――『知っていた。……だが、印のことは知らなかったんだ。死んだ公証人の印が使われていたなんて。俺が知っていたのは、「手続きを早める方法がある」と、それだけだった』」


 審問室が、水を打ったように静まり返った。


「日付の偽りについては、家の跡取りご本人が、知っていたと記録の上で認めておられます。『印のことは知らなかった』。その線引きの真偽は、私の知る範囲ではありません。私は、記録に何が残っているかを申し上げるだけです」


 主席監査官は、しばらく議事録を見つめ、それからゆっくりと口を開いた。


「――本日の審問は、ここまでとする。提出された受理簿、陳述書、議事録および関連控えは、いずれも本院の証拠として採用する。ベルモント家には、執事長クランツの雇用および指示系統に関する記録、ならびに家計帳簿の写しを、二十日以内に提出するよう命ずる。次回審問では、クランツ本人と、カスパル・フォン・ベルモント氏の証言を聞く」


 終わった。私は証人席で、一つ息をついた。


(手は、震えている。……でも、声は震えなかった。読み上げるべき書類を、順番どおりに読み上げた。それだけのことが、今日はできた)


 廊下に出たところで、後ろから足音が追ってきた。カスパルだった。代理人が止める間もなく、彼は私の前に立った。怒りでも、懇願でもない顔だった。


「セリナ。……次は、俺が証言台に立つ」

「はい」

「今日みたいな逃げ方はしない。母にも、俺から話す。――もう、誰にも任せきりにはしないよ」


 彼はそれだけ言って、代理人の待つ方へ歩いていった。痩せた背中が、廊下の光の中へ消えていく。


(七年の婚約の終わり方は、何度も姿を変える。……でも今のは、終わりではなくて、彼の始まりなのかもしれない)


 院の外に出ると、石段の下で、レオンハルトが待っていた。何も聞かなかった。ただ、私が階段を降りきるのを見届けて、当然のように隣に並んで歩き出した。


「……終わりました」

「ああ」


 並んで歩く。王都の夕方の通りは、人が多くて、少しうるさい。


(次は、クランツの番だ。あの印章箱の中身が、全部表に出る日が来る。その日まで、私の記録は、静かに眠っていればいい)


 歩きながら、私は書類袋の刺繍に、そっと触れた。水車の刺繍は、指先の下で確かな手触りがした。

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