二階の執務室
王都に着いたのは、四日目の夕方だった。
城壁の検問を抜け、石畳の音が馬蹄に混じり始めた時、私は窓の外の景色に、奇妙な気持ちになった。生まれ育った街のはずなのに、半年離れただけで、もう「訪れる場所」の顔をしている。
(追い出されるように出た街に、証人として戻る。人生は、本当に帳尻が合わない)
宿へ向かう馬車は、かつての私の通勤路を通った。公証局のある通り、よく寄った文具屋、そして――角を曲がれば、ベルモント邸のある区画である。馬車が差しかかった時、私は窓の外を見た。邸の窓は、夕方だというのに半分も灯っていなかった。使用人の数が、減っているのだろう。
(半年前、私を「紙くずなら勝手に」と見送った邸だ。今は、その邸の明かりが、少しずつ消えていく途中にある)
ざまあみろ、という言葉は、浮かんでこなかった。浮かんだのは、ただ、帳尻の合わなさへの静かな驚きだけだった。記録を軽んじた家の末路は、怒号ではなく、こういう夕方の暗さでやって来るのだと思う。
宿は、監査院の裏通りの小さな宿屋に取った。レオンハルトは公爵家の王都邸に入る。分かれ際、彼は馬車の扉にもたれて言った。
「明日、局へ行くのだろう」
「はい。保管証明を受け取りに。それと――顔を、出してきます」
「なら、今日は早く休め。……証言台では、寝不足の顔は損だ」
翌朝、私は王都公証局の前に立っていた。
石段も、扉の重さも、記憶のままだ。なのに二階の執務室に上がって、私は思わず足を止めた。受理簿の帳面が、変わっていたのである。新しい帳面には、不受理の理由を書き込む欄が、あらかじめ印刷されていた。
「――気づいた?」
振り返ると、ミナが立っていた。半年ぶりの同僚は、少しだけ髪を短くして、受付の若い子たちに指示を出す立場になっていた。
「あなたの三行が、局の正式な書式になったのよ。監査院にあなたの受理簿の写しが届いてから、局長が規則を変えたの。『不受理は、理由まで記録すること。アーレンの三行を見習え』って」
(私の三行が。……規則に)
執務室の若い公証人たちが、仕事の手を止めて、こちらを盗み見ている。一人が意を決したように近づいてきて、深く頭を下げた。
「アーレン先輩。私、入局したばかりの頃、先輩の受理簿を写させてもらって、勉強しました。……明日、頑張ってください」
「――ありがとう。あなたの受理簿も、いつか誰かの手本になるわ」
言いながら、私は自分の声が震えていないか確かめた。大丈夫だった。胸の奥は、震えていたけれど。
ミナが、隅の机を指さした。
「あの席ね、まだ空けてあるの。局長が『帰ってくるかもしれない人間の席だ』って、誰にも座らせないのよ」
私の席だった場所には、埃ひとつなかった。毎日、誰かが拭いているのだという。
(置いてきた席が、待っていてくれる。……王都にも、私の居場所は、なくなってはいなかったのか)
奥の局長室で、局長は書類から顔を上げた。半年で、白髪が増えた気がした。
「アーレン。……いや、今はヴァルデン領の領地公証官殿だったな」
「局長こそ、お変わりなく」
「変わったさ。いろいろとな」
局長は、封をした一通を差し出した。王都公証局が保管する受理簿の原本について、その保管の経緯と、写しとの同一性を証する「保管証明書」である。明日の審問で、私の控えの束が「彼女の私物」ではなく「公の記録の連なり」であることを支える、最後の裏付けだった。
「監査院からは、局にも経緯の説明を求められている。明日の審問には、私も局側の証人として列席する。……あの日」
局長は言葉を切り、窓の外を見た。
「『少しは丸くならんか』と言ったな、私は。あの言葉を、半年、引きずっておる。――お前の三行が、この局の看板を守ったんだ。丸くならなかった人間が、正しかった。それを証明するのが、明日だ」
(怒鳴られた日の翌日に、庇いの回答書を書いてくれた人だ。この人は、この人なりに、紙のこちら側で闘ってきたのだろう)
「局長。あの日の回答書、ありがとうございました」
「……礼を言われる覚えはない。行け、ミナが昼を用意しているそうだ」
帰り際、ミナが食堂の裏で私を捕まえた。声を潜めて、言う。
「あのね。お母様が、一度だけ局に来たのよ。『あの子は、向こうで元気にやっているか』って。……私は言ったわ。『ヴァルデン領の、なくてはならない人です』って。お母様、しばらく黙って、それから『そう』って、小さく笑ったの」
私は、返事ができなかった。
(笑った。母が、私のことで。……審問が終わったら、手紙を書こう。短いのでいい。元気でいる、とだけ)
夜、宿に戻った私は、書類袋から謄本の束を取り出し、明日の順番どおりに並べ直した。様式の公布告示、受理簿の写し、不受理の三行、相談の記録、議事録の写し、婚約解消の確認書、そして保管証明書。一つずつ、日付を確認し、頁の角を揃える。
最後に、時系列だけを抜き書きした一枚の覚書を作った。書類の名前は書かない。日付と、起きたことだけを、上から下へ。一昨年の春、相談。今年のあの日、申出と不受理。その翌月、死去した公証人の印で通された契約。――日付だけを並べれば、物語は勝手に姿を現す。私の仕事は、明日、その順番を間違えないことだけだった。
印ケースを指先で開け、閉める。かちり、と留め金が鳴った。この音が、もう外れない。
その時、宿の主人が、局の使いが置いていったという封書を届けてきた。局長の、走り書きだった。
『急ぎ知らせる。ベルモント家側は明日の審問で、貴殿の控えの「信憑性」を争う構えだ。婚約を破棄されたことへの私怨から、控えを後づけで作った可能性がある、と主張する準備書面が出たそうだ。――怯むな。事実は、お前の側にある』
(私怨。……そう来るか)
私は並べ直した書類の束を、もう一度、最初からめくった。公布告示の日付。相談の記録の日付。受理簿の通し番号。――私の感情など、どこにも入り込む余地のない、数字と日付の連なりがそこにあった。
(いいでしょう。明日は、私は何も「主張」しない。紙だけが、順番に、話す日にしましょう)




