写しを抱えて
出立の朝、分室ではまず「残すもの」の儀式から始めた。
三冊の綴りと、両村の水利契約の謄本。原本類は、すべて領に残す。私が王都へ持っていくのは、監査院の求めに応じて作成した、認証の謄本と写しの束だけである。
(原本は、動かさない。旅の途中で何があっても、真実の置き場所が揺るがないように。それが、この一件で最初に学んだことだった)
金庫の前で、私は保管目録を三通作った。品目、日付、綴じの状態、保全札の番号。一通は分室の台帳に、一通は公館のグレゴールに、もう一通は村の教会の年代記と一緒に保管してもらう。原本の在り処を、三つの別の場所の記録が指し示す。二重、三重にしておけば、誰か一人の嘘では消せない。
鍵も二本に分けた。金庫の鍵はグレゴールが、文書庫の鍵はペーターが預かる。どちらか一人では、原本に触れられない仕組みである。
「留守の間、分室の受理は通常どおり。ただし、新規の大きな契約は、私の帰任まで締結を待つこと。困ったことが起きたら、決して口頭で決めず、まず書面で私に――いえ、写しを公爵の使者便に託して」
「はい。……先生、本当に、五日後の審問だけですよね。終わったら、帰ってきますよね」
ハンナの声が震えた。ペーターが慌てて、背筋を伸ばして見せる。
「大丈夫だ、ハンナ。先生は証人だ。被告じゃない。……なあ、先生」
「ええ。証言して、帰ってくる。それだけよ」
(それだけ、と言い切れるのが、私の強さでありたい。怖くないと言えば、嘘になるけれど)
前夜には、レオンハルトが分室に顔を出した。保管目録の写しに目を通し、金庫の鍵の配分を聞いて、頷く。
「領の方は、心配するな。書類の番は、私もできる」
「閣下が、ですか」
「君に教わったからな。決める前に読む。決めたら書く。……それくらいは、できるつもりだ」
(この人は、本当に変わった。いえ――変わったのは、私の見方か。この人はずっと、読んでくれる人だった)
「一つだけ、言っておく。お前は告訴人ではない。証人だ。向こうの家の行く末を決めるのは、監査院であって、お前ではない。……重荷は、紙だけにしておけ」
「はい。そのつもりです」
分かっていたはずのことを、改めて言葉で渡されると、肩の力が少し抜けた。
私の荷物は、驚くほど少なかった。着替えが二組と、謄本の束と、父の形見――ではない、直してもらった印ケース。王都へ行くのに、公証印まで持っていく必要はないのだが、ケースだけは手元に置きたかった。留め金は、もう勝手に開いたりしない。指先で押せば、かちりと小気味よく閉まる。
公館の前には、旅仕様の馬車と護衛の兵が二騎、待っていた。グレゴールが、老いた背筋を精一杯に伸ばして見送りに立つ。
「先生。王都の天気は変わりやすいと聞きます。……どうぞ、ご無事で」
「グレゴールさんも、お元気で。館の帳面の検め、帰ったら続きをしましょう」
老家令は深く頭を下げた。値踏みの目で私を見た、あの初日の老人と、同じ人とは思えなかった。
分室の二人とは、館の門のところで別れた。ペーターが差し出したのは、今朝の日誌の写しだった。――領地公証官、証人出頭のため王都へ出立す。原本類の保管状況、別紙目録のとおり。
「帰ってきたら、原本と一緒に綴じます。だから先生、写しのままで終わらせないでください」
「……ええ。必ず、戻って綴じるわ」
「私は、泣きませんからね。記録係が泣いたら、字が滲みますから」
ハンナはそう言って、盛大に泣いた。ペーターが慌てて、自分の袖で彼女の涙を拭おうとして、余計に叱られていた。
馬車が町の外れまで来たところで、私は思わず「止めてください」と声を上げていた。
道の両側に、人が並んでいたのである。フェルト村とミーレ村の人々、市場の店主たち。祭りの翌朝の、まだ早い時刻に、みんなが仕事着のまま立っていた。
ヤーコプが、一歩前に出た。
「先生。王都の偉いさんたちに、言ってやってください。わしらの水は、今は紙の約束で守られとるって。……あんたの書いた紙が、ここで生きとるって」
「伝えます。必ず」
「行って、戻ってこい。それだけだ」
マルガレーテの短い言葉に、私は頷くしかできなかった。
フォーゲル織物店の老店主は、両手で布の袋を差し出した。深い藍色の布に、銀糸で小さな水車が刺繍されている。書類を入れるための袋だった。
「書類を抱えてきた先生には、書類を入れる袋を。……王都では、その袋いっぱいに、いい報せを詰めて帰ってきてください」
(報せは紙ではないのに。この人たちは、私の仕事が何なのか、私よりよく分かっているのかもしれない)
馬車が動き出す。窓から見える領都が、少しずつ小さくなる。
領境に近い関所で、馬車が止められた。番人が通行税の額を告げ――そして、領収の小札に、きちんと印を押して渡してきたのである。春に初めてこの道を通った時は、口頭の請求だけで、印などどこにもなかった場所だ。
(半年。私が来てから、まだ半年。それでも、紙と印は、領の隅々に根を張り始めている)
私は手帳を開き、受理簿とは別の、私だけの覚書の頁に、こう書き込んだ。
――出頭先、王都・監査院。同行者、レオンハルト・フォン・ヴァルデン公爵。
「未定」と書いたあの夜から、ずっと気になっていた余白が、埋まった。それだけで、胸の奥の小さな震えが、少しだけ静かになった。
馬車が領境の峠に差しかかった頃、後ろから早馬が追いついてきた。王都の公証局の使いだという。届けられた封筒は二つ。一つは公的な出頭確認。もう一つは、ミナの字だった。
『セリナ、封を開ける前に深呼吸して。――審問の日程と顔ぶれが分かりました。家の側の証人に立つのは、カスパル様、ご本人だそうです。夫人は列席の予定。そして局長の追伸――「クランツが、監査院の調べに対し、全部話すと言っているそうだ」』
私は封筒を閉じ、しばらく峠の向こうの景色を見ていた。王都は、まだ見えない。
(証言台をはさんで、七年顔を合わせてきた人と向かい合う。……それでも、私のすることは変わらない。読むべき書類を、順番に読む。それだけだ)
馬車は峠を越え、王都への道を下り始めた。




