祭りの水車
収穫祭の朝、領都の外れ、堰のほとりの広場は、夜明け前から提灯の灯に浮かんでいた。
両村合同の大水車飾りは、広場の真ん中、水路の上に据えられている。麦の穂と色布で飾られた大きな車輪に、フォーゲル織物店の刺繍布が旗のように架けられていた。綿地に銀糸で、水車と麦穂。調印の日にリーザが見せてくれた、あの見本が、一枚の大きな布になって帰ってきたのである。
「先生、見てください。あれ、昼の開水で回るんです。堰の板を両村で引いて、水を分け合って、回すんです」
ハンナは朝から興奮しきりだった。だが私は、祭りの日も登録簿を抱えている。屋台の区画確認は、分室の仕事だった。
早速、小さな騒ぎが起きた。王都から来たという行商人が、空いていた一角に荷を広げ始めたのである。
「ここは昔から、うちの場所でしてね」
「昔の場所取りは、この領では記録に残っていません。……今日の分は、臨時区画が二つ空いています。登録料は通常の半額で、今日限りの仮登録ができますよ」
「仮でも、登録が要るんですかい」
「ええ。その代わり、今日一日、あなたの場所は誰にも取られません。登録簿に名前が載るというのは、そういうことです」
行商人は面食らった顔をして、それから笑って仮登録の紙に名を書いた。
(場所は、声の大きい者のものではない。紙に書いた者のものだ。――祭りの日こそ、それが一番よく分かる)
午前の中ほど、マルガレーテが晴れ着姿で現れた。八十三歳の最長老は背筋がしゃんとして、手には麦穂を編んだ小さな髪飾りを持っていた。
「先生、あんたも娘らしくしなさい。ほれ、頭を下げて」
「えっ、私は仕事中で……」
「仕事の邪魔にはならんよ。麦の穂はな、実るほど頭を垂れる。あんたによう似とる」
ハンナに背中を押され、私は観念して頭を下げた。編みたての麦の香りがする飾りが、髪に留まる。広場のあちこちで「先生、似合う」と声がかかり、私は耳まで熱くなった。
(公証人が、花ならぬ麦穂を頭に載せて歩くとは。……でも、誰も笑っていない。それが少し、くすぐったい)
昼。開水の合図の鐘が鳴った。
堰の前で、ヤーコプとロレンツが並んで立った。四十年、水の分け方で争い続けた二人の村長である。二人は顔を見合わせ、頷き合って、揃って分水板の引き綱に手をかけた。
「……せーの、で引くぞ、ヤーコプ」
「おう。そっちこそ、腰を痛めるなよ、ロレンツ」
板が上がり、水が走った。昼の水と、池に貯めてあった水とが一緒に水路を下り、大水車が軋みながら、ゆっくりと回り始める。刺繍の旗が風に膨らんだ。広場中から、歓声が上がった。
(昼の取り分と、夜の貯め分。契約書に書かれた通りの水が、一つの車輪を回している。……紙の上の取り決めが、目に見える形になる日が来るなんて)
午後は、屋台が軒を連ねた。フォーゲル織物店の絹布は昼過ぎに売り切れ、リーザの刺繍小物の店先には若い娘たちの列ができた。フェルト村の新米と、ミーレ村の挽きたての粉が、同じ棚に並んで売られていく。私は登録簿を閉じた。今日はもう、私の紙が要る場面はなさそうだった。
広場の端では、意外な組み合わせが酒を酌み交わしていた。春先に堰の前で言い争った、ミーレ村の製粉所の親方と、フェルト村の若い農夫である。
「あの時は、悪かったな。若いのが板を動かしたと決めつけて」
「こっちこそ。流木ひとつ取るのに、断りもなしに堰へ上がって」
「今は、番の交代も両村で決めてある。……紙に書いてあるってのは、気が楽だな。疑わなくて済む」
親方は私に気づくと、照れたように杯を掲げた。グレゴールはグレゴールで、両村の子どもたちに取り囲まれ、昔の祭りの話を聞かせている。あの値踏みをしていた老家令が、子どもに麦飴をせがまれて、財布と格闘していた。
(争いの仲裁ではない。疑わなくて済む暮らし。……契約書の仕事は、こういう午後のためにあるのかもしれない)
夕方からは、輪踊りである。楽師の笛に合わせて、広場に大きな輪ができる。私は端で眺めているつもりだったのだが、村の娘たちに両腕を掴まれ、あっという間に輪の中へ引き込まれていた。
「先生も踊るの! 今日はみんな、踊る日なの!」
「ま、待って、私は踊り方なんて……」
輪は回る。手と手をつないで、右へ二歩、左へ一歩。私がよろけるたび、両隣が笑って支えてくれる。そして輪が一巡したところで、向かいの輪に、もう一つ大きな影が加わった。
レオンハルトだった。領主が輪踊りに加わるなど、前代未聞のはずである。村人たちのどよめきの中、彼は平然と列に入り、回って、回って――やがて、私の隣に来た。
大きな手が、私の右手を取った。
(手。……大きい。温い。踊りの手つなぎだ。これは、ただの踊りの)
「楽しそうだな、セリナ」
「……公爵閣下こそ。領主様が輪に入るなんて、グレゴールが見たら卒倒します」
「あれはあれで、後で踊るそうだ。家令の輪が、別にあるらしい」
私は思わず吹き出した。笑いながら回る水車飾りの下で、公証人も領主も、村人も商人も、同じ輪の中で同じ歌を歌っていた。
夜。水車の回転がゆるやかになり、提灯の灯が水面で揺れる頃、私は堰のほとりで一息ついていた。レオンハルトが、静かに隣に立った。
「祭りの五日後、という期日は変わらんそうだ。出立は明日の朝になる」
「はい。準備はできています」
「……王都へは、私も行く」
私は顔を上げた。
「ヴェルナー商会の契約の届出と、市場の登録制度の報告。領主本人が王都へ上がる用件は、もともとあったのだ。それに――証人を一人で知らない街に置くのは、雇い主の礼儀に反する」
(知らない街、ではない。王都は、私の生まれた街だ。……だけど、この人がそう言ってくれる意味は、分かる)
「受理簿の、同行者の欄。『未定』と書いたままでした」
「なら、埋めておけ」
短い言葉だった。けれど、水車の水音の中で、その一言は確かに私の胸に落ちた。
祭りの灯りが、ゆっくりと消えていく。明日、私は王都へ発つ。追い出されるためではなく、証人として。そして今度は、一人ではない。
(未定の余白は、埋めるためにある。――あの日の私に、教えてあげたい)




