祭りの支度
執事長の失踪の報せが王都で波紋を広げるより先に、領では収穫祭の支度が始まっていた。
今年の祭りは、例年と違う。水利の新しい契約のおかげで、フェルト村とミーレ村が、初めて共同で祭りの水場と屋台を担うのだ。貯水池の水は両村のものになり、出店の区画割りは市場の登録制度に組み込まれる。登録簿を抱えたハンナが、村と市場の間を行ったり来たりしている。
「先生、両村の若い衆が、合同で大きな水車の飾りを作るんですって。堰の前で回すんです。……泣けますね」
「泣くのは祭りの日に取っておきなさい。今は登録の漏れをなくすのが先よ」
(四十年揉めた二つの村が、一緒に飾りを作る。契約書一枚が変えた景色は、私の想像よりずっと大きかった)
支度の三日目には、早くも小さな揉め事が起きた。屋台の区画を巡って、市場の古参の乾物屋と、フェルト村から初めて出店する農家が言い合いになったのである。だが決着は、喧嘩腰にはならなかった。ペーターが登録簿と区画図を持ち出し、空き区画の番号を示すと、両者はあっさり頷いた。
「先生、昔なら三日揉めた話ですよ」
「記録は、喧嘩の後ではなく、前に作るものだからね」
言いながら、私は少しだけ誇らしかった。この領の当たり前は、確かに変わり始めている。
その支度の最中、王都の大商会の代理人が、予告もなく分室を訪れた。ヴェルナー商会。両替も手がける、王都でも五指に入る商会である。代理人は礼儀正しく、しかし鋭い目をした中年の男だった。
「領地公証官殿、ご評判は王都でも聞いております。当商会は、貴領の産品――とりわけ、綿地に絹糸の刺繍を施した新しい織物――の買付を考えております。ついては、領内の織物全般について、向こう五年の専売契約を」
提示された契約書案を、私はいつもの順に読んだ。買付価格は、商会が一方的に決める条項。品質の基準は曖昧で、不合格品の返品費用は領側の負担。解除の条件は、商会にのみ有利だった。
(見事なまでに、商会のための契約書だ。――だが、紙で持ってきただけ、良心的とも言える。王都には、口約束で領の産品を買い叩いてきた商会も、少なくないのだから)
「ヴェルナー様。専売の範囲と期間、価格の決め方、品質基準。この四点は、領側の条件で書き直します。それと、買付は登録簿に登録された業者を通じて行うこと。口約束の買い付けは、この領では認められません」
交渉は二日に及んだ。一番の難所は、価格の決め方だった。
「買付価格は、当商会の査定で決めるのが商慣行でして」
「慣行は結構です。ですが査定の基準が書面にない契約は、この領では結びません。価格は王都の織物相場に連動させ、下限を明記してください。相場が下がっても、織り手の暮らしが立つ値段を」
「……公証官殿は、商人のようなことをおっしゃる」
代理人は苦笑し、それから真顔になった。
「分かりました。その代わり、品質のばらつきは許容できません。納品の基準を、数値で」
「見本布を二部作り、双方で保管しましょう。不合格の判定は、見本との照合で行うこと。返品の費用負担も、判定の結果に従うこと」
公爵は「契約の実務は君に任せる」と言って私の後ろに座り続け、要所でだけ領主としての言葉を添えた。出来上がった契約は、専売は刺繍織物のみ三年間、価格は市況に連動した最低価格つき、品質基準は見本と数値で明記、そして解除の条件は双方対等。市場の登録第一号、フォーゲル織物店には、絹糸と儀礼用絹布の大口の注文が入った。
調印に先立ち、リーザが刺繍布の見本を持ってきた。綿地に、銀色の絹糸で水車と麦の穂が刺繍されている。この領の景色、そのものだった。代理人は見本を光に透かし、しばらく黙ってから言った。
「……これは、王都で売れます。いや、売らなければ、商人の名折れだ」
調印の日、老店主は登録証と注文書を交互に見て、しばらく声が出なかった。
「先生。六十年の店が、王都の商会と、対等な紙で契約を結ぶ日が来るとは」
「紙が対等なのではありません。記録があるから、対等になれるのです」
(潰れかけた老舗は、記録によって立たせ直された。――これが、私の仕事の、もう一つの顔だ)
祭りの前日、市場の飾り付けを見て回る公爵に、私は随行した。提灯の列、屋台の骨組み、両村合同の水車飾り。夕日の中で、領都全体が少しずつ祝祭の色に染まっていく。
「この景色も、君の仕事のうちだな、セリナ」
「……レオンハルト様。私は、契約書を作っただけです」
「その『だけ』が、この領にはなかったんだ」
(今、私は、この人の名を呼んだ。様つきでも、確かに、名を。――前は、どうしても声に出せなかったのに)
彼は私の言葉に気づいて、少しだけ目を細めた。何も言わなかった。それが、かえって嬉しかった。
その夜、分室に戻った私を、王都からの急使が待っていた。監査院の紋章の封筒である。中には、証人としての出頭要請が入っていた。――収穫祭の五日後、王都・監査院にて、ベルモント伯爵家の契約不正に関する審問に、証人として出頭されたい。
そして私信の形で添えられた局長の走り書きに、私は息を止めた。
『行方不明の執事長クランツは、隣領の関所で身柄を拘束された。携えていた印章箱からは、死去した元公証人の印を含む、四名分の公証印が見つかったそうだ。――審問は、大きなものになる』
(四名分。……あの家の病は、私が思っていたよりも、ずっと深かった)
私は出頭要請書を二度読み、受理簿に記録した。出頭先、監査院。期日、収穫祭の五日後。同行者、未定。
書き終えて、私は同行者の欄をもう一度見た。未定、と書いたその余白が、少しだけ心細かった。だが、すぐに思い直す。余白は、埋めるためにある。これまでの頁が、そうだったように。
(祭りが終わったら、王都へ。――今度は、追い出されるためではなく。証人として、自分の記録を抱えて)
窓の外では、明日の祭りの提灯に、試しの灯がともされていた。




