21話 加速
十一月半ば。対策室が発足してから、半月ほどが経っていた。この半月で、国内の症例数は、三浦たちの予測を、はるかに超える速度で膨れ上がっていた。対策室に設置されたばかりの共有データベースは、連日更新され続け、佐伯をはじめとする分析班は、ほとんど休む間もなく、その更新作業に追われていた。
月曜の朝、三浦が対策室に着くと、佐伯が、すでに険しい表情で、モニターの前に立っていた。目の下には、濃いくまができていた。
「三浦さん、朝一で、経過概要の更新が来ました。百件を超えました」
三浦は、その一言に、一瞬、言葉を失った。対策室が発足したあの日、国内の症例は、まだ六件だった。それが、半月足らずで、百件を超えた。桁が変わる、というのは、こういう感覚なのだと、三浦は初めて実感した。
【対策室・経過概要】
作成:内閣情報集約センター 件名:国内における壊死性攻撃行動症候群症例の増加について
一、本日時点で、国内において確認されている症例数は、百七件に達した。対策室発足時(六件)から、半月あまりで、十七倍以上の増加となる。
二、これに加え、関連が疑われるものの、正式な確認に至っていない通報が、全国の警察・消防・医療機関から、連日、多数寄せられている。未確認事案の総数は、対策室として、もはや正確に把握しきれていない。
三、症例の内訳、地域分布については、別紙のとおり。全国の都道府県のうち、二十一都道府県で、少なくとも一件以上の症例が確認されている。
以上
樫村は、この報告を読み終えると、しばらく、何も言わなかった。やがて、静かに、しかし、これまでにない重さを持った声で告げた。
「今日は、あらためて、この症候群について、分かっていることのすべてを、一から確認したい。統括庁、頼めるか」
統括庁の技官は、頷くと、分厚い資料を、対策室の全員に配布した。
「これまで、断片的に報告してきた内容を、あらためて一つにまとめました。数か月分の知見の、総ざらいになります」
技官は、資料をめくりながら、一つ一つ、淡々と読み上げ始めた。
「まず、感染経路について。咬傷、及び体液——主に血液と唾液——の接触による感染が、現時点で確認されている、唯一の感染経路です。空気感染、飛沫感染の可能性は、これまでの症例からは、確認されていません」
対策室の誰も、口を挟まなかった。三浦は、この事実自体は、すでに何度も聞かされてきたはずだった。だが、あらためて、こうして正式な報告として並べられると、その一つ一つが、これまでとは違う重みを持って、耳に響いた。
「感染力そのものについては、どうですか。少量の体液でも、感染は成立するのですか」
三浦がそう尋ねると、技官は、資料の別のページを示した。
「動物実験に相当するデータはまだありませんが、症例の分析からは、比較的少量の体液接触でも、感染が成立している可能性が高いと考えられます。国内二例目の事案のように、咬傷による直接の接触だけでなく、傷口への飛散でも、感染が成立したとみられる例が複数あります」
三浦は、その説明に、あらためて背筋が冷たくなるのを感じた。技官は、続けた。
「次に、潜伏期間について。これまで確認された症例では、最短で数時間、最長では、十日を超える例も報告されています。潜伏期間の長さと、感染時の体液量、あるいは個体差との、明確な相関関係は、いまだ特定できていません」
「つまり、噛まれてから、いつ発症するかは、まったく予測がつかない、ということですね」
三浦がそう確認すると、技官は、頷いた。
「その通りです。数時間で発症する場合もあれば、二週間近く、無症状のまま経過する場合もあります。この不確実性が、経過観察の期間設定を、非常に難しいものにしています」
「現在の経過観察期間は」
「暫定的に、十四日間としています。ただ、この期間で本当に十分なのか、専門家会議でも、まだ結論は出ていません」
技官は、次のページをめくった。
「発症後の経過について。発症は、多くの場合、突然の意識障害と、興奮状態として現れます。この段階に至ると、これまでのすべての症例において、意識、理性、意思疎通能力が、完全に、かつ不可逆的に失われています。回復した例は、これまで、国内外を通じて、一例も報告されていません」
対策室の空気が、目に見えて、重くなっていった。警察庁の担当者が、小さく尋ねた。
「一例も、というのは、海外の症例も含めて、ですか」
「はい。南アフリカ、フランス、アメリカ、その他、確認できている限りの海外の症例情報を含めて、回復例は、皆無です」
三浦は、その断言に、これまで心のどこかで抱いていた、かすかな希望——いつか、治療法が見つかり、患者たちが元の生活に戻れる日が来るかもしれない、という希望——が、静かに、しかし確実に、崩れ去っていくのを感じた。
技官の報告は、まだ終わっていなかった。
「薬理学的な介入についても、あらためて確認します。鎮静剤をはじめとする、あらゆる薬理学的介入は、通常量はもちろん、大幅な増量を行っても、ほとんど、あるいはまったく効果を示しません。抑制の手段は、現時点で、物理的な拘束以外、確認されていません」
防衛省の連絡官が、小さく息を吐いた。誰も、それを咎めなかった。同じ重さを、その場にいる全員が、感じていた。
技官は、資料の最後のページを開いた。その手が、わずかに震えているのを、三浦は見た。
「最後に、これが、恐らく、最も重要な点になります。発症した患者は、これまでのところ、症候群そのものによる死亡例が、確認されていません。心拍、呼吸をはじめとする生命活動は、拘束された状態のまま、安定して維持されます」
「つまり」
三浦は、その先を、自分の口で言うことに、抵抗を感じながらも、続けた。
「発症した患者は、回復もしないが、死にもしない、ということですか」
「現時点で確認されている限りでは、そうなります」
その一言が、対策室に落ちた瞬間、誰も、何も言わなかった。長机を囲む、五つの省庁の人間たちが、それぞれ、資料を見つめたまま、身動きを止めていた。三浦は、自分の心臓の音だけが、やけにはっきりと聞こえるのを感じた。壁の時計の秒針が、いつもより大きく、部屋に響いているようだった。
回復しない。だが、死なない。それはつまり、今、収容されているすべての患者が、そして、これから発症するであろう、すべての患者が、終わりのないまま、永遠に近い時間、その状態であり続ける、ということを意味していた。隔離施設は、いつか空くことを前提に、設計されてきた。だが、この病は、その前提そのものを、根底から覆していた。
沈黙を破ったのは、樫村だった。
「収容能力の試算は、この事実を踏まえて、作り直す必要がある」
その声は、いつもより、はっきりと掠れていた。
「これまでの試算は、一定期間で病床が回転することを前提にしていた。だが、この病が、患者を死なせも、治しもしないのなら——病床は、増える一方で、二度と、空かない」
厚労省の担当者が、震える声で答えた。
「その通りです。今の試算は、根本から、見直さなければなりません。単純計算でも、このペースで症例が増え続ければ、半年後には、必要な収容スペースは、現在の試算の、恐らく十倍以上に膨れ上がります」
「十倍」
佐伯が、その数字を、思わず、というように、口にした。
「はい。しかも、これは、症例数の増加が、今のペースで止まった場合の話です。増加が続けば、その数字は、さらに膨らみます」
三浦は、この部屋に集まった、それぞれの分野の専門家たちが、一人残らず、言葉を失っている光景を、初めて見た。半年以上、名前のない現象と格闘してきた三浦自身でさえ、この最後の事実には、これまでとは違う種類の、深く、静かな恐怖を覚えていた。
「危機管理監、この事実は、国民に、どこまで伝えるべきでしょうか」
三浦がそう尋ねると、樫村は、しばらく考え込んでから答えた。
「伝えないわけにはいかない。だが、伝え方は、慎重に考える必要がある。『回復しない』という事実だけを伝えれば、患者を持つ家族は、絶望する。『死なない』という事実だけを伝えれば、それを、奇妙な希望として受け取る者も出てくるかもしれない。この二つは、セットで、正確に伝えなければならない」
三浦は、樫村の言葉に、深く頷いた。真実を、正確に、しかし、人の心を過度に打ちのめさない形で伝えること——それは、これまでの半年間、三浦たちがずっと苦しんできた課題の、もっとも過酷な集大成のように思えた。
昼過ぎ、対策室の電話が、絶え間なく鳴り続けていた。佐伯が、受話器を置いては、また取る、という作業を、何度も繰り返していた。
「三浦さん、また新しい通報です。今度は、北海道から」
「関連が疑われる、という段階か」
「はい。ただ、こういう通報が、今日だけで、もう十件を超えています。全部を、正式な症例として確認する余裕が、今のところありません」
三浦は、佐伯の疲れきった声に、深い同情を覚えた。百七件という数字の裏には、まだ、確認しきれていない、さらに多くの兆候が、日本中に、静かに広がっているのかもしれなかった。
「佐伯、少し休め。倒れられたら、元も子もない」
「三浦さんこそ。今日、まだ何も食べてないですよね」
三浦は、その指摘に、苦笑いを返すことしかできなかった。対策室にいる誰もが、自分自身の限界を、少しずつ、しかし確実に、後回しにし続けていた。
――読売新聞 2026年11月20日 朝刊(一面)――
【南部アフリカ関連の症候群、国内107件に 関連通報が全国で相次ぐ】
南部アフリカ関連の症候群の国内確認症例が、107件に達したことが分かった。対策室発足時の6件から、半月あまりで大幅に増加している。全国の警察・消防には、関連が疑われる通報が連日相次いでおり、政府は正確な実態把握を急いでいる。専門家の一部からは、症候群の性質上、患者の回復も死亡も確認されておらず、収容体制の長期化が避けられないとの指摘も出ている。〔共同〕
三浦は、その夜、志乃と電話で、短く言葉を交わした。詳しいことは、まだ話せなかった。ただ、いつもより長く、電話を切らずにいた。志乃も、それを、何も言わずに、受け入れてくれた。
「今日、何かあった?」
志乃が、静かに聞いた。三浦は、少し迷ってから、言葉を選んで答えた。
「これまでで、一番、しんどい報告を聞いた。詳しくは言えないけど、この病気が、これまで思っていたより、ずっと、根が深いものだって分かった」
「そう」
志乃は、それ以上、深くは聞かなかった。ただ、電話の向こうで、静かに息をついた。
「私も、今日、似たような感覚があった。現場で、みんなの表情が、少しずつ、変わってきてる気がする。怖がってる、というより、覚悟が決まってきてる、というか」
「覚悟、か」
「うん。終わりが見えないものと向き合うときって、多分、こういう顔になるんだと思う」
三浦は、志乃のその言葉に、今日、対策室で聞いた「終わりのなさ」という事実と、まったく同じ響きを聞き取った。志乃もまた、言葉にはできなくても、現場の空気の中で、同じ真実の一端を、すでに感じ取り始めていた。
三浦のデスクの脇の世界地図には、赤いシールが、もはや、一つ一つを見分けることが難しいほど、密集していた。だが、三浦の頭を占めていたのは、その数の多さよりも、今日、対策室で聞いた、あの一言だった。
回復しない。だが、死なない。
この症候群は、終わりを、あらかじめ拒んでいた。三浦たちが、これまでずっと求め続けてきた「終わり」という言葉そのものが、この病の前では、意味を持たないのかもしれなかった。三浦は、その事実の重さを抱えたまま、静まり返った対策室で、ただ、じっと、天井を見上げていた。
窓の外には、十一月の夜空が広がっていた。星は、いつも通り、そこにあった。三浦は、その変わらなさに、わずかな慰めを覚えながら、同時に、この静かな夜空の下で、今この瞬間も、どこかで新たな発症者が生まれているかもしれないという事実から、目を逸らすことができずにいた。




