20話 壊死性攻撃行動症候群
総理会見の翌朝、対策室は、これまでとは明らかに違う顔つきをしていた。壁には、大きなホワイトボードが新たに運び込まれ、五つの省庁の名前が、それぞれの色で区分けされている。デスクの数も、昨日までの倍近くに増えていた。三浦は、その光景を、まだどこか現実感のないまま眺めていた。
昨夜まで、この部屋は「事態室」と呼ばれ、三浦、佐伯、樫村の三人が、ほとんどの時間を、静かに過ごす場所だった。今朝は、まるで別の部屋のようだった。コピー機の音、電話の呼び出し音、初対面同士の職員たちが交わす、硬い自己紹介の声——半年以上、三人だけの沈黙に慣れていた三浦の耳には、その喧騒が、どこか眩しく響いた。
入り口の壁には、急ごしらえの看板が掲げられていた。「壊死性攻撃行動症候群対策室」。三浦は、その文字を見上げながら、ようやくこの現象に、組織としての正式な住所と、正式な名前が与えられたことを実感した。名前のない現象を、名前のない部屋で扱ってきた半年間が、この瞬間、本当に終わったのだと、三浦は静かに噛みしめた。
午前九時、対策室の中央に置かれた長机に、主要メンバーが集まった。内閣官房から樫村と三浦、内閣感染症危機管理統括庁から医系技官、厚生労働省健康局の担当者、警察庁から刑事局の担当者、防衛省から統合幕僚監部の連絡官、そして佐伯が、記録係として末席に着いた。長机を囲む顔ぶれを見渡しながら、三浦は、これまで半年間、三人だけで背負ってきたものの重さを、初めて、複数の他人の視線を通して、客観的に測り直しているような感覚を覚えた。
「それでは、始めます」
樫村が、この日の対策室の議事を、静かに切り出した。
最初の議題は、専門家会議の報告だった。統括庁の技官が、まとめられた資料を、全員に配布した。
「専門家会議による、正式な評価結果です。X因子について、既知のリッサウイルス属との遺伝的類似性は確認されましたが、既知株とは、なお有意な差異があります。国内六例、及び南アフリカ側から提供された検体との照合の結果、症状の発現パターン、潜伏期間の幅、そして薬理学的介入への耐性——これらすべてにおいて、既知の感染症の枠組みでは説明のつかない、共通の特徴が確認されました」
「結論としては」
樫村が、短く尋ねた。統括庁の技官は、資料の最後のページを開いた。
「専門家会議としては、これを、未知の病原体(暫定名称:X因子)による、新興感染症であると認定することが、科学的に妥当であるとの見解でまとまりました。感染症法上の指定感染症としての取り扱いを、速やかに進めるべきだと考えます。あわせて、臨床像に基づく症候名として、『壊死性攻撃行動症候群』とすることを、専門家会議として提案いたします」
「壊死性、というのは」
三浦が尋ねると、統括庁の技官は、資料の該当箇所を指し示した。
「発症者の一部組織に見られる、壊死に類似した変化に基づく名称です。攻撃行動、という語を含めることで、臨床現場での識別性を高める意図もあります。あくまで、症状に基づく記述的な名称であり、原因そのものを示す名称ではありません」
三浦は、その説明を聞きながら、この名前もまた、これまでの半年間、三浦たちが繰り返してきた作業——分からないものを、既存の言葉の組み合わせで、なんとか輪郭づけようとする作業——の延長線上にあるのだと感じた。壊死性攻撃行動症候群。それは、真実そのものではなく、真実に、今の科学が辿り着ける限りの言葉で近づいた、一つの符牒にすぎなかった。それでも、符牒があることは、何もないことより、はるかに前進だった。
三浦は、その言葉を、静かに、しかし深く胸に刻んだ。半年以上、誰も口にできなかった結論が、ようやく、専門家という、最も慎重であるべき立場の人間たちの口から、正式に語られていた。
「専門家会議の中で、異論はなかったのですか」
三浦がそう尋ねると、統括庁の技官は、少し表情を曇らせた。
「ゼロではありません。一部の委員からは、症例数がまだ十分ではなく、より慎重な検証を重ねるべきだ、という意見も出ました。ただ、多数意見としては、これ以上の検証を待つことによる被害拡大のリスクの方が、はるかに大きいという判断で一致しました」
「その少数意見は、記録に残りますか」
「もちろんです。科学的な議論において、異論を消し去ることは、あってはなりません」
三浦は、その答えに、静かに頷いた。この半年間、三浦たちが繰り返し直面してきた「断定できない」という言葉の重さを、専門家たちもまた、同じように背負っていたのだと、あらためて理解した。
「厚労省としては、この見解を受けて、どう動きますか」
厚労省の担当者が、手元の資料をめくりながら答えた。
「専門家会議の答申を受け、政令による指定感染症の指定作業を、大至急進めます。ただ、正直に申し上げますと、通常の指定作業と同じ手順を踏んでいては、間に合いません。前例のない速度での、閣議決定を要請することになると思います」
「どれくらいの速度を、想定していますか」
「本来なら数週間かかる手続きを、一週間程度に圧縮したいと考えています。無理を承知の要請になりますが」
樫村は、頷いた。
「無理を通す。それが、この対策室の役目だ」
二つ目の議題は、情報共有の体制についてだった。警察庁の担当者が、これまでの経緯を踏まえた上で、率直な懸念を口にした。
「これまで、この事案に関する情報は、事態室——失礼、内閣官房が、実質的に一元管理してきました。今後、五つの省庁が対等に情報を扱うにあたり、報告のルートと、決定権の所在を、明確にしておく必要があると考えます」
三浦は、その言葉に、これまでの半年間の重みを思い出した。三浦たちが、少人数で、静かに抱え込んできたものが、今、正式に、五つの省庁の共有財産になろうとしている。
「提案があります」
三浦が、初めて、この会議で口を開いた。
「一次情報の窓口は、これまで通り、内閣情報集約センターに一元化するべきだと思います。ただし、集約された情報は、二十四時間以内に、対策室の全構成員に、同一のタイミングで共有する。特定の省庁が、情報を独占したり、逆に、他省庁より遅れて把握したりすることがないように」
「具体的な仕組みは」
「対策室専用の、共有データベースを構築します。佐伯、技術的には可能か」
佐伯が、頷いた。
「可能です。すでに、私が個人的に作っていた地図とデータベースの構造を、そのまま拡張できます。今日中に、叩き台を作れます」
半年間、佐伯が一人で、業務時間外に積み上げてきたものが、今、対策室全体の基盤になろうとしていた。三浦は、その事実に、静かな誇らしさを覚えた。
厚労省の担当者が、佐伯の方を見て、興味深そうに尋ねた。
「その、個人的に作られていたというデータベース、いつ頃から」
「三月末からです。最初のナミビアの報告があった、その二週間後くらいから、独自に」
「半年以上前から、ですか」
厚労省の担当者は、驚いた表情を隠さなかった。佐伯は、少し照れくさそうに続けた。
「業務外の作業だったので、正式な評価には値しないと思いますが、傾向を追うだけなら、十分機能していました」
「いや、十分どころか——正直、うちの省の統計チームより、よほど正確な推移を追えていたんじゃないですか」
佐伯は、その言葉に、何も答えず、ただ小さく微笑んだ。三浦は、その微笑みに、これまでの半年間、彼女が積み重ねてきた孤独な作業が、ようやく報われた瞬間を見た気がした。
「異論がなければ、その方向で進めます」
樫村がそう言うと、防衛省の連絡官が、一つ、確認を求めた。
「防衛省としては、治安出動を含む実力組織の運用に関わる情報については、機密区分の異なる、別のルートを併用させていただきたい。すべてを、同一のデータベースに置くことには、慎重な立場です」
「理解しました。防衛省関連の運用情報については、別途、協議の場を設けます」
樫村の裁定に、対策室の空気が、一つ、落ち着いた。
三つ目の議題は、最も重く、最も難航した。隔離・収容体制についてだった。
「現時点で、国内六例のうち、五例は、既存の特定感染症指定医療機関、または、それに準ずる体制の病院に収容されています。ですが、統一的な収容基準は、まだ存在しません」
厚労省の担当者が、そう切り出すと、警察庁の担当者が、すぐに反応した。
「治安上の懸念もあります。愛知の事案のように、医療機関の外で発症するケースが増えれば、警察の実力による制圧が、初動対応の中心にならざるを得ません。その後の収容先を、あらかじめ確保しておく必要があります」
「収容先の数は、足りるのか」
樫村が尋ねると、厚労省の担当者は、苦い表情で答えた。
「正直に申し上げて、まったく足りません。現在の特定感染症指定医療機関の病床数は、全国で数十床程度です。今後、症例が二桁、三桁と増えていった場合、既存の病床だけでは、到底対応しきれません」
「代替案は」
「検討中ですが、公共施設の一時転用や、自衛隊の医療部隊による野外収容施設の設営なども、選択肢として排除すべきではないと考えています」
防衛省の連絡官が、その言葉に頷いた。
「野外収容施設の設営については、技術的には可能です。ただし、それを国内で実施するとなれば、法的な根拠と、政治的な判断が、別途必要になります」
「法的根拠、というのは、具体的には」
三浦が尋ねると、連絡官は、慎重に言葉を選びながら答えた。
「自衛隊法上の災害派遣、あるいは、感染症法に基づく要請という形が考えられます。ただ、どちらの場合も、これまでに前例のない規模と性質の運用になります。国民の理解を得るためにも、相応の説明と、準備期間が必要です」
三浦は、その慎重な物言いの中に、これから対策室が向き合っていく困難の大きさを、あらためて感じ取った。ワクチンも、治療法も、まだどこにもない。隔離施設さえ、圧倒的に足りない。それでも、この部屋にいる誰もが、その足りなさから目を逸らさず、一つずつ、できることを積み上げようとしていた。
「収容能力の試算は、いつまでに出せますか」
樫村がそう尋ねると、厚労省の担当者と防衛省の連絡官は、顔を見合わせた。
「一週間以内に、暫定的な試算をまとめます」
「頼む。国民に説明する際、最初に聞かれるのが、間違いなくその数字だ」
三浦は、この議論を聞きながら、以前、佐伯が並べた三つの答え——隔離施設なし、治療法なし、防護態勢も不十分——を思い出していた。あのとき、答えのなさに、三浦たちは、ただ立ち尽くすしかなかった。今、この部屋では、少なくとも、その答えのなさを、一つずつ、具体的な選択肢に変えていく作業が、始まっていた。遅すぎたのかもしれない。だが、始まらないよりは、はるかによかった。
議論が一区切りついたところで、樫村が、全員を見渡して言った。
「今日の会議で、正式に確認しておきたいことがある。専門家会議の答申を受け、対策室として、この事案を、壊死性攻撃行動症候群の疑いが極めて強い事態として、統一的に取り扱うことを決定する。異論のある者は」
誰も、手を挙げなかった。
「それでは、決定とする。この決定を、本日付の議事録として残し、官房長官及び総理に、正式に報告する」
三浦は、その瞬間、これまでの半年間、自分がずっと待ち望んでいた言葉が、ようやく、公式な議事録として、記録される瞬間に立ち会っていることを実感した。参考情報、という言葉の対極にある言葉が、今、この部屋で、確定した。
会議が終わり、他省庁の担当者たちが、それぞれの持ち場に戻っていったあと、三浦、佐伯、樫村の三人だけが、しばらく、会議室に残っていた。
「長い会議でしたね」
佐伯が、疲れたように、椅子の背にもたれかかった。
「これから、こういう会議が、毎日続く」
樫村が、そう応じた。三浦は、その言葉に、これから始まる日々の重さを、あらためて感じた。だが、その重さは、これまでの半年間の重さとは、明らかに種類が違っていた。これまでは、一人で、あるいは三人だけで抱える重さだった。今は、五つの省庁、何十人もの人間で、分け合う重さになっていた。
「厚労省の方も、統括庁の方も、思っていたより話しやすい人たちでしたね」
佐伯が、ぽつりと言った。三浦も、同じ印象を抱いていた。半年間、顔の見えない「他省庁」という存在に、漠然とした警戒心を抱いていたことに、三浦はあらためて気づいた。実際に顔を合わせ、言葉を交わしてみれば、彼らもまた、それぞれの持ち場で、同じように、答えのない問いと格闘してきた人間たちだった。
「三浦さん」
樫村が、静かに呼びかけた。
「なんでしょう」
「今日、あんたが提案した情報共有の仕組み。あれは、半年前のあんたなら、絶対に言えなかった提案だ」
「そうでしょうか」
「半年前のあんたは、情報を上げるか上げないか、常に一人で抱え込んでいた。今日のあんたは、情報を、どう分かち合うかを、自分から提案した。それは、小さいようで、大きな変化だ」
三浦は、その言葉に、何も言い返せなかった。ただ、樫村の言う通りだと、静かに認めるしかなかった。あの九件目の報告に、判を押した朝から、今日この日まで、三浦は、確かに、何かを変えられてきた。それが良い変化なのか、まだ三浦自身にも、分からなかった。だが、少なくとも、後戻りできない変化であることだけは、確かだった。
「佐伯さんも、変わったな」
樫村が、佐伯の方を見て言った。
「私もですか」
「今日、厚労省の担当者に、自分のデータベースのことを、堂々と説明していた。半年前のあんたは、俺に見せるだけでも、随分と迷っていたはずだ」
佐伯は、少し照れくさそうに笑った。
「勘に自信がついたわけじゃないです。ただ、勘を裏付ける材料が、こうして誰かに認められる日が来る、っていうことを、初めて信じられるようになっただけです」
三浦は、佐伯の言葉に、深く頷いた。この半年間、三人それぞれが、それぞれのやり方で、少しずつ、確かに、変わってきていた。
三浦は、対策室の窓の外に目をやった。十一月に入ったばかりの空は、澄んだ青さを湛えていた。この部屋の中で交わされている、重く、緊迫した言葉の数々とは裏腹に、外の世界は、いつも通りの静けさで、そこにあった。三浦は、その対比に、これから始まる長い戦いの、本当の困難さを、あらためて見た気がした。
樫村が、席を立ちながら、最後に言った。
「今日はもう終わりにしよう。三人とも、少し休め。明日からは、今日以上に長い一日になる」
三浦と佐伯は、頷いた。三人は、それぞれの荷物をまとめ、対策室を後にした。廊下に出ると、他省庁の職員たちが、まだ忙しく行き交っていた。三浦は、その喧騒の中に、自分たちの半年間が、静かに溶け込んでいくのを感じながら、駅への道を歩き始めた。




