22話 病院
三浦志乃の病院が、正式に指定医療機関に追加されたのは、二週間前のことだった。もともとの指定医療機関だけでは、明らかに収容能力が足りず、対応可能な病院を、急遽、追加で指定する動きの中で、志乃の勤務先も、その一つに選ばれた。志乃自身も、志願というより、半ば必然のような形で、新設された専用病棟のシフトに、組み込まれることになった。
最初の一週間は、まだ、余裕があった。搬送されてくる患者は、日に一人か二人。ガウンを着け、手袋を二重にし、フェイスシールドをつける。標準予防策を、可能な限り厳重にした、いわば手作りに近い防護態勢だった。専用の陽圧防護服のようなものは、全国的にまだ数が足りておらず、志乃たちの病院には、行き渡っていなかった。それでも、志乃は、決められた手順の一つ一つを、体に染み込ませるように、丁寧にこなしていた。夫の恒一が、事態室で、どれほど過酷な日々を送っているかは、断片的にしか知らなかったが、少なくとも、自分の持ち場では、まだ、踏みとどまれているという実感があった。
二週目に入った頃から、何かが変わった。
搬送されてくる患者の数が、目に見えて増え始めた。病棟の空気も、次第に張り詰めていった。看護師たちの表情から、笑顔が消え、代わりに、押し殺した緊張だけが、常に漂うようになっていた。志乃自身も、家に帰る頃には、立っているのがやっとというほど、疲れ果てている日が続いていた。
その日、志乃が病棟に入ると、夜勤明けの同僚が、疲れきった顔で申し送りをした。
「昨夜だけで、三人搬送されてきました。今、病棟は、ほぼ満床です」
「三人?」
「はい。一人は都内の別の病院からの転院、残り二人は、救急からの直接搬送です」
志乃は、その数字に、息を呑んだ。二週間前は、週に二、三人だった。それが今は、一晩で三人になっている。志乃は、申し送りのファイルを受け取りながら、これから始まる一日の重さを、あらためて覚悟した。
「病床の方は」
「あと二床です。師長が、他の病棟への一時転用も、検討し始めてます」
志乃は、その言葉に、静かな眩暈を覚えた。この病棟が、いつか、患者で溢れる日が来るかもしれないと、頭では分かっていた。だが、こうして具体的な数字として突きつけられると、その現実の重さは、これまでとは、まったく違う質感を持って迫ってきた。
午前十時過ぎ、志乃は、経過観察中の患者の一人、佐々木という初老の男性の様子を見に、病室を訪れた。佐々木は、都内で確認された別の患者と、勤務先で接触があったとして、念のため入院し、経過を見ている段階だった。まだ発症の兆候はなく、会話も、受け答えも、いつも通りだった。
「今日は、調子どうですか」
「ああ、変わりないよ。早く家に帰りたいけどね」
佐々木は、そう言って、力なく笑った。志乃は、バイタルサインを確認し、異常がないことを、いつも通り記録しようとした。
その時だった。
佐々木の表情が、一瞬で、変わった。目の焦点が合わなくなり、次の瞬間には、獣のような叫び声を上げながら、志乃に向かって、突進してきた。
「——っ!」
志乃は、とっさに身をかわし、ベッドの陰に転がり込んだ。佐々木は、たった今まで穏やかに話していたとは思えないほどの力で、点滴のスタンドを薙ぎ倒し、扉に向かって、体当たりを繰り返した。
志乃は、震える手で、ナースコールの緊急ボタンを、力の限り押し込んだ。
数秒後、院内放送が、鋭く鳴り響いた。
「緊急、緊急。警備員、および付近の男性職員の方、至急、東病棟三階、専用病棟までお願いします。繰り返します、警備員、男性職員の方、至急、東病棟三階へ——」
その放送を聞きながら、志乃は、扉の向こうで暴れ続ける佐々木の声を、体を丸めたまま、じっと聞いていた。数十秒——それが、これまでの人生で、最も長く感じられた数十秒だった。
やがて、廊下を走る、複数の足音が聞こえた。警備員と、応援に駆けつけた男性職員たちが、病室になだれ込んでくる。
「押さえて! 頭を保護して!」
怒号にも似た指示が飛び交う中、四人がかりで、ようやく佐々木の動きが、封じ込められていった。志乃は、その光景を、ベッドの陰から、呆然と見つめていた。ほんの数分前まで、笑いながら世間話をしていた人物が、今は、まったく別の何かに、変わり果てていた。
制圧が終わったあと、志乃は、しばらく、立ち上がることができなかった。同僚が、駆け寄ってきて、志乃の肩を抱いた。
「大丈夫? 怪我は」
「ない……大丈夫、多分」
志乃は、そう答えながら、自分の声が、まだ震えていることに気づいた。潜伏期間中は、普通に会話ができる。志乃は、これまで何度も、その事実を、頭では理解していた。だが、実際に、その豹変の瞬間を、目の前で見るのは、これが初めてだった。理解することと、体験することの間には、これまで感じたことのない、大きな断絶があった。
午前中だけで、志乃は、四人の患者に対応した。ガウンを身につけ、脱ぎ、また身につける。その繰り返しの中で、志乃の意識は、次第に、機械的なものになっていった。それは、感情を殺しているというより、感情を、そうしなければ保っていられないほど、日々の業務が、過酷になっていたということだった。だが、佐々木の豹変を目撃した直後の今日は、その機械的な平静さすら、うまく保てずにいた。
一人の患者の点滴を交換しながら、志乃は、ふと、その患者の年恰好を見た。恐らく、三十代の男性。拘束された手首には、まだ新しい搬送時の擦り傷が残っている。この人にも、家族がいて、仕事があって、昨日までの日常があったはずだった。志乃は、その想像を、意識して振り払った。振り払わなければ、一日の業務を、最後までやり遂げることができなかった。
昼休み、志乃は、同僚の一人が、今日、出勤していないことに気づいた。
「今日、奈々、休みだっけ」
志乃が、隣の同僚に尋ねると、相手は、少し困った顔をした。
「分からない。今朝、無断欠勤扱いになってる。連絡もつかないって、師長が心配してた」
奈々は、志乃と同期で入職した、看護師だった。この二週間、専用病棟のシフトを、志乃と一緒に回してきた仲間でもあった。無断欠勤、という言葉が、志乃の胸に、小さな、しかし消えない不安を残した。
「体調崩したのかな」
「かもね。この仕事、いつ、誰が倒れてもおかしくないし」
志乃は、その言葉に、曖昧に頷いた。だが、心のどこかで、その「倒れる」という言葉が、単なる過労以上の意味を持っているのではないかという予感が、静かに広がり始めていた。
休憩の合間、志乃は、奈々にメッセージを送った。「大丈夫? 心配してる」。既読はつかなかった。
午後、病棟に、新しい搬送の連絡が入った。
「救急から、緊急搬送一名。三十代女性、意識障害、興奮状態。防護態勢、至急整えてください」
志乃は、他のスタッフとともに、受け入れ準備に取り掛かった。ガウンを着け、手袋を二重にし、フェイスシールドを装着する。この二週間で、何度も繰り返してきた動作だった。だが、今日は、なぜか、指先が、いつもよりわずかに震えていた。
理由は、自分でも分からなかった。ただ、朝から続く、奈々への言いようのない不安が、志乃の体のどこかに、澱のように溜まっていたのかもしれなかった。
搬送されてきたストレッチャーが、病棟に入ってきた。拘束された患者は、激しく体を揺すり、意味を成さない声を上げ続けていた。志乃は、他のスタッフとともに、患者の状態を確認するため、ストレッチャーに近づいた。
その顔を見た瞬間、志乃の体は、完全に、動きを止めた。
奈々だった。
志乃は、しばらく、その場から、一歩も動けなかった。同僚たちが、手順通りに、患者——奈々——を、隔離病室へと運んでいく。志乃も、本来なら、その手順の一部を担うはずだった。だが、体が、まったく言うことを聞かなかった。
「志乃さん、大丈夫ですか」
誰かの声が、遠くから聞こえた気がした。志乃は、その声に、ようやく我に返った。
「大丈夫。ごめん、大丈夫」
志乃は、そう答えながら、震える手で、ガウンの襟元を、もう一度、確かめた。奈々の搬送記録を、誰かが読み上げているのが、耳に届いた。自宅で発見、発見時すでに発症、家族からの通報——志乃は、その一つ一つの言葉を、まるで自分のことのように、重く受け止めた。
いつから。どこで。なぜ、自分に、何も言わなかったのか。
志乃の頭の中には、次から次へと、答えの出ない問いが浮かんでは消えた。奈々が、南部アフリカに渡航した経験はないはずだった。志乃が知る限り、奈々の感染経路は、この病棟以外に、考えられなかった。
志乃は、隔離病室の扉越しに、奈々の様子を、しばらく見つめていた。医師と、他の看護師たちが、手際よく、しかし緊張した面持ちで、処置にあたっている。志乃は、その輪の中に、自分から入っていく勇気を、どうしても持てずにいた。師長が、そんな志乃に気づき、静かに肩に手を置いた。
「志乃さん、今日はもう、休憩に入って。無理しないで」
「でも」
「代わりは、他にもいる。今のあなたには、休むことも、仕事のうちよ」
志乃は、その言葉に、小さく頷くことしかできなかった。休憩室に向かう廊下を歩きながら、志乃は、自分の足が、いつもより、ずっと重く感じられることに気づいていた。
その日の勤務が終わったのは、日付が変わる直前だった。志乃は、更衣室で、一人、しばらく座り込んでいた。涙は、出なかった。ただ、体の中から、何かが、少しずつ抜け落ちていくような感覚だけが、残っていた。
スマートフォンを開くと、三浦からのメッセージが届いていた。「今日も遅いのか。無理するなよ」。志乃は、その一文を、何度も見つめた。返信しようとして、指が止まった。今日あったことを、どう言葉にすればいいのか、志乃自身にも、分からなかった。
結局、志乃は、短く「うん、大丈夫」とだけ打って、送信した。噓ではなかった。だが、正直でもなかった。三浦が、この半年間、事態室で、何度も繰り返してきたであろう、その狭間の言葉を、志乃は今夜、初めて、身をもって理解した気がした。
帰り道、志乃は、奈々と、最後に交わした会話を思い出していた。二週間前、専用病棟のシフトが始まる前夜、二人で、遅くまで、これからのことを話し合った。
「怖いね、正直」
奈々は、そう言って、少し笑っていた。
「怖いけど、志乃さんと一緒なら、なんとかやれる気がする」
志乃は、あのときの奈々の笑顔を、はっきりと思い出せた。だが、今日、病棟に運ばれてきた奈々の顔には、その笑顔の面影は、どこにもなかった。あるのは、ただ、意味を失った、激しい興奮の表情だけだった。
志乃は、夜道を歩きながら、静かに、声を殺して泣いた。誰にも見られないように、それでも、涙は、止まらなかった。この二週間、志乃は、恐怖に慣れることで、自分を保ってきた。だが、今夜、その慣れが、まったく通用しない現実が、目の前に突きつけられていた。
家に着くと、三浦は、まだ起きて待っていた。志乃の顔を見るなり、三浦は、何かを察したように、何も聞かずに、ただ、志乃を抱きしめた。
「今日、何があった、とは聞かない。ただ、ここにいる」
志乃は、三浦の胸の中で、しばらく、声を上げて泣いた。三浦は、何も言わず、ただ、志乃の背中をさすり続けた。
しばらくして、志乃は、ようやく、途切れ途切れに、今日のことを話し始めた。奈々のこと。搬送されてきた瞬間のこと。あの日、二人で交わした約束のこと。三浦は、黙って、最後まで聞いていた。
「志乃のせいじゃない」
三浦が、静かに言った。
「分かってる。頭では分かってる。でも」
「うん」
「でも、私、この二週間、ずっと、自分が特別扱いされてるみたいに、感じてた。頑張ってる、耐えてる、って。でも、奈々も、同じように頑張って、耐えてたはずなのに、あの子だけが、こんな形で、向こう側に行ってしまった。その違いが、何だったのか、私には分からない」
三浦は、志乃の言葉に、何も答えられなかった。ただ、あの半年間、三浦自身が、何度も抱いてきた問い——なぜ、あの一件は起き、この一件は起きなかったのか——と、まったく同じ形の問いを、志乃もまた、今、抱えていることを知った。
「明日も、行くのか」
三浦が、ようやく、そう尋ねた。志乃は、少し間を置いてから、頷いた。
「行く。行かなきゃいけない。奈々の代わりが、他にいないなら、なおさら」
「無理は」
「するかもしれない。でも、今、逃げたら、私、多分、一生後悔する」
三浦は、その言葉に、これ以上、何も言わなかった。ただ、志乃の手を、静かに、しかし、これまでのどの夜よりも強く、握りしめた。
答えのない問いを、二人は、その夜、何時間も、共に抱え続けた。それ以外に、二人にできることは、何もなかった。窓の外では、十一月の夜が、いつも通り、静かに更けていった。だが、志乃にはもう、その静けさが、これまでとは、まったく違う重みを持って感じられていた。




