エピローグ 春までの距離
エピローグ 春までの距離
三月の札幌は、まだ寒かった。
雪は減ってきている。だが歩道脇には黒く汚れた雪山が残り、朝方になると薄い氷が張る。空気には冬の冷たさが残っていた。
秋山恒一は、小さなアパートの窓を開けた。
冷たい風が部屋へ流れ込む。
遠くでカラスが鳴いていた。
六畳一間の部屋は相変わらず狭い。石油ストーブの匂いが染みつき、壁紙はところどころ剥がれている。流し台の横には洗ったままのマグカップと、半額で買った焼きそばパン。
以前なら、こんな部屋で暮らす自分を想像しただけで絶望していただろう。
だが今は違った。
惨めさには、少し慣れてしまった。
秋山はグレーのスウェットの上へ、古いネイビーのカーディガンを羽織った。電気ケトルの湯気が白く立ち上り、安いインスタントコーヒーの匂いが広がる。
スマートフォンはテーブルの端へ置かれていた。
以前のように、起きてすぐ確認することはなくなった。
通知はほとんど来ない。
それでも最近、秋山は時々、自分から誰かへ連絡するようになっていた。
被害者の会で知り合った人間たちだ。
「秋山さん、今日来ます?」
「またラーメン行きましょうよ」
そんな他愛のないメッセージ。
それだけで十分だった。
必要以上に優しくない。
甘い言葉もない。
だが嘘もない。
午前九時。
秋山は警備員の制服へ着替えた。紺色のジャンパー、黒い作業ズボン、擦れた革靴。鏡を見る。
老けたと思う。
だが、少しだけ目が戻った気もした。
外へ出る。
空は薄曇りだった。
雪解け水が道路を濡らし、地下鉄駅前では会社員たちが缶コーヒーを片手に歩いている。
秋山はコンビニへ寄った。
「いらっしゃいませ」
若い店員が声を出す。
秋山はおにぎり二つと味噌汁を持ってレジへ向かった。
「袋いりますか?」
「ああ、お願いします」
店員は機械的に笑う。
それだけのやり取り。
だが秋山は最近、こういう普通の会話が少し好きになっていた。
誰かがそこにいる。
それだけで、人は少し救われる。
昼休み。
警備室で味噌汁をすすりながら、秋山はスマホを開いた。
ニュースサイト。
《SNS型投資詐欺、過去最悪》
《被害総額数百億円》
秋山はしばらく記事を見つめていた。
以前なら胸が潰れそうになっただろう。
だが今は違う感情があった。
怒りだった。
「また増えてるのか……」
隣で先輩警備員が缶コーヒーを開けながら言う。
「最近多いっすねぇ、こういう詐欺」
秋山は少し迷ってから口を開いた。
「……俺、それ被害者なんだ」
先輩が動きを止める。
「え?」
「ニュースみたいなやつ」
沈黙。
秋山は苦笑した。
「馬鹿ですよね」
だが先輩は意外そうに首を振った。
「いや……」
そして缶コーヒーを一口飲む。
「俺の親父も、昔似たようなの引っかかりましたよ」
秋山は顔を上げた。
「人って、弱ってる時にやられるんすよね」
その言葉に、秋山は何も返せなかった。
夕方。
仕事帰り、秋山は大通公園を歩いていた。
雪はほとんど溶けている。
ベンチには学生たちが座り、観光客が写真を撮っている。風はまだ冷たいが、どこか春の匂いが混じっていた。
秋山は立ち止まり、空を見上げた。
あの頃、自分は本当に凜を愛していたのだろうか。
違う気がする。
愛ではない。
もっと空腹に近いものだった。
誰かに見つけてほしかった。
「あなたはここにいていい」と言ってほしかった。
ただ、それだけだった。
スマートフォンが震える。
秋山は少しだけ緊張しながら画面を見る。
『お疲れさまです。来週の被害者の会、来れます?』
五十代の男性からだった。
秋山は小さく笑う。
『行きます』
送信。
数秒後。
『終わったあと飯でも』
秋山は空を見上げた。
雪雲の向こうに、淡い青が見える。
春はまだ遠い。
借金も消えない。
失った金も戻らない。
凜は存在しない。
だが。
それでも人は、生きていくしかないのだと思った。
秋山はポケットへスマホをしまう。
そして少しだけ背筋を伸ばし、札幌の街を歩き出した。




