表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/11

最終話 ブロック

最終話 ブロック


 一月の札幌は、空が低かった。


 朝六時。まだ薄暗い街に雪が降っている。除雪車のエンジン音が遠くで唸り、古い木造アパートの窓ガラスを震わせていた。


 秋山恒一は、狭い台所で湯を沸かしていた。


 六畳一間。


 壁紙は黄ばみ、石油ストーブの匂いが部屋へ染みついている。流し台の横には半額シールの貼られた食パンと、安いインスタントコーヒー。


 以前住んでいたマンションとは比べものにならない。


 だが今の秋山には、この狭さが妙に落ち着いた。


 もう失うものがないからかもしれない。


 湯気の立つマグカップを両手で包む。


 指先が少し冷えている。


 窓の外では、学生らしい若者たちが笑いながら雪道を歩いていた。


 秋山は黒いダウンジャケットを羽織ると、仕事へ向かった。


 警備員のアルバイト。


 札幌駅近くの雑居ビル。


「おはようございます」


 警備室へ入ると、先輩の警備員が缶コーヒーを飲みながら片手を上げた。


「秋山さん、雪すごいっすね」


「だな」


 警備服は少し大きかった。


 紺色の制服。


 安いナイロン生地。


 袖口は擦り切れている。


 だが誰にも頭を下げなくていいこの仕事は、今の秋山には楽だった。


 モニターを眺める。


 出入りする人間。


 配送業者。


 会社員。


 誰も自分を知らない。


 それが少しだけ救いだった。


 昼休み。


 コンビニのおにぎりとカップ味噌汁を食べながら、秋山はスマホを見ていた。


 以前ほど怖くなくなっていた。


 通知が鳴らないことにも、少し慣れてしまった。


 だが凜とのトーク履歴だけは、まだ削除できない。


 灰色のアイコン。


 存在しないアカウント。


 それでも消せなかった。


 夜。


 仕事を終えた秋山は、地下鉄へ乗らず歩いていた。


 冷たい空気が頬へ刺さる。


 札幌の冬は、痛い。


 だがその痛みが、逆に自分を現実へ繋ぎ止めてくれる気もした。


 今日は「被害者の会」がある。


 最初は行くつもりなどなかった。


 騙された人間同士で集まるなど、惨めだと思っていた。


 だが弁護士に勧められ、一度だけ顔を出した。


 すると、そこには自分と同じ目をした人間たちがいた。


 退職金を失った老人。


 シングルマザー。


 大学生。


 皆、何かを奪われていた。


 金だけではない。


 もっと別のものを。


 会場は古い市民センターだった。


 暖房が効きすぎて少し暑い。紙コップの緑茶から湯気が立ち、蛍光灯の白い光が机を照らしている。


「今日は初めて来られた方もいます」


 司会の女性が柔らかく言った。


「無理に話さなくても大丈夫です」


 数人が自分の話をした。


「毎日連絡が来てたんです」


「家族より理解してくれた」


「気づいたら借金してました」


 秋山は俯いたまま聞いていた。


 全部、自分と同じだった。


「秋山さん」


 不意に名前を呼ばれる。


 会場の視線が集まる。


 秋山は喉を鳴らした。


「……はい」


「少しだけでも、お話しされますか」


 断ろうと思った。


 だが。


 気づくと、口が動いていた。


「最初は……ただ、話し相手ができただけだったんです」


 会場は静かだった。


「毎日、連絡が来て」


 秋山は笑おうとした。


 だが上手く笑えない。


「おはようとか、寒いねとか……そんなことだけで」


 言葉が詰まる。


「嬉しかったんです」


 誰も笑わない。


 秋山はゆっくり続けた。


「騙されたことより」


 そこで一度目を閉じる。


「誰かに必要とされたかったんです」


 会場が静まり返る。


 暖房の音だけが聞こえる。


 秋山はそこで初めて、自分が泣いていることに気づいた。


 帰り道。


 雪は止んでいた。


 歩道には除雪された雪が積まれ、街灯が白く反射している。


 秋山はポケットへ手を入れ、ゆっくり歩いた。


 以前ほど、孤独は暴れなくなっていた。


 消えたわけではない。


 だが、自分だけではないと知った。


 それだけで少し違った。


 スマホが震える。


 秋山は立ち止まる。


 胸が、僅かに痛む。


 画面を見る。


『こんにちは。日本人の方ですか?』


 若い女のアイコン。


 笑顔の写真。


 どこかで見たような構図。


 秋山は動かなかった。


 雪の匂い。


 遠くを走る車の音。


 白い息。


 画面を見つめる。


 少し前の自分なら、返信していた。


 きっと優しく。


 寂しかったから。


 誰かに必要とされたかったから。


 秋山は長い間、画面を見つめていた。


 そして。


 静かに「ブロック」を押した。


 確認画面。


《このユーザーをブロックしますか?》


 秋山は迷わない。


 指で押す。


 画面が切り替わる。


 それだけだった。


 世界は何も変わらない。


 雪も降っている。


 街も動いている。


 だが秋山は、ほんの少しだけ呼吸が楽になるのを感じた。


 空を見上げる。


 厚い雪雲の隙間から、薄い青空が見えていた。


 冬の札幌は寒い。


 それでも。


 空は、ちゃんと晴れることがある。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ