最終話 ブロック
最終話 ブロック
一月の札幌は、空が低かった。
朝六時。まだ薄暗い街に雪が降っている。除雪車のエンジン音が遠くで唸り、古い木造アパートの窓ガラスを震わせていた。
秋山恒一は、狭い台所で湯を沸かしていた。
六畳一間。
壁紙は黄ばみ、石油ストーブの匂いが部屋へ染みついている。流し台の横には半額シールの貼られた食パンと、安いインスタントコーヒー。
以前住んでいたマンションとは比べものにならない。
だが今の秋山には、この狭さが妙に落ち着いた。
もう失うものがないからかもしれない。
湯気の立つマグカップを両手で包む。
指先が少し冷えている。
窓の外では、学生らしい若者たちが笑いながら雪道を歩いていた。
秋山は黒いダウンジャケットを羽織ると、仕事へ向かった。
警備員のアルバイト。
札幌駅近くの雑居ビル。
「おはようございます」
警備室へ入ると、先輩の警備員が缶コーヒーを飲みながら片手を上げた。
「秋山さん、雪すごいっすね」
「だな」
警備服は少し大きかった。
紺色の制服。
安いナイロン生地。
袖口は擦り切れている。
だが誰にも頭を下げなくていいこの仕事は、今の秋山には楽だった。
モニターを眺める。
出入りする人間。
配送業者。
会社員。
誰も自分を知らない。
それが少しだけ救いだった。
昼休み。
コンビニのおにぎりとカップ味噌汁を食べながら、秋山はスマホを見ていた。
以前ほど怖くなくなっていた。
通知が鳴らないことにも、少し慣れてしまった。
だが凜とのトーク履歴だけは、まだ削除できない。
灰色のアイコン。
存在しないアカウント。
それでも消せなかった。
夜。
仕事を終えた秋山は、地下鉄へ乗らず歩いていた。
冷たい空気が頬へ刺さる。
札幌の冬は、痛い。
だがその痛みが、逆に自分を現実へ繋ぎ止めてくれる気もした。
今日は「被害者の会」がある。
最初は行くつもりなどなかった。
騙された人間同士で集まるなど、惨めだと思っていた。
だが弁護士に勧められ、一度だけ顔を出した。
すると、そこには自分と同じ目をした人間たちがいた。
退職金を失った老人。
シングルマザー。
大学生。
皆、何かを奪われていた。
金だけではない。
もっと別のものを。
会場は古い市民センターだった。
暖房が効きすぎて少し暑い。紙コップの緑茶から湯気が立ち、蛍光灯の白い光が机を照らしている。
「今日は初めて来られた方もいます」
司会の女性が柔らかく言った。
「無理に話さなくても大丈夫です」
数人が自分の話をした。
「毎日連絡が来てたんです」
「家族より理解してくれた」
「気づいたら借金してました」
秋山は俯いたまま聞いていた。
全部、自分と同じだった。
「秋山さん」
不意に名前を呼ばれる。
会場の視線が集まる。
秋山は喉を鳴らした。
「……はい」
「少しだけでも、お話しされますか」
断ろうと思った。
だが。
気づくと、口が動いていた。
「最初は……ただ、話し相手ができただけだったんです」
会場は静かだった。
「毎日、連絡が来て」
秋山は笑おうとした。
だが上手く笑えない。
「おはようとか、寒いねとか……そんなことだけで」
言葉が詰まる。
「嬉しかったんです」
誰も笑わない。
秋山はゆっくり続けた。
「騙されたことより」
そこで一度目を閉じる。
「誰かに必要とされたかったんです」
会場が静まり返る。
暖房の音だけが聞こえる。
秋山はそこで初めて、自分が泣いていることに気づいた。
帰り道。
雪は止んでいた。
歩道には除雪された雪が積まれ、街灯が白く反射している。
秋山はポケットへ手を入れ、ゆっくり歩いた。
以前ほど、孤独は暴れなくなっていた。
消えたわけではない。
だが、自分だけではないと知った。
それだけで少し違った。
スマホが震える。
秋山は立ち止まる。
胸が、僅かに痛む。
画面を見る。
『こんにちは。日本人の方ですか?』
若い女のアイコン。
笑顔の写真。
どこかで見たような構図。
秋山は動かなかった。
雪の匂い。
遠くを走る車の音。
白い息。
画面を見つめる。
少し前の自分なら、返信していた。
きっと優しく。
寂しかったから。
誰かに必要とされたかったから。
秋山は長い間、画面を見つめていた。
そして。
静かに「ブロック」を押した。
確認画面。
《このユーザーをブロックしますか?》
秋山は迷わない。
指で押す。
画面が切り替わる。
それだけだった。
世界は何も変わらない。
雪も降っている。
街も動いている。
だが秋山は、ほんの少しだけ呼吸が楽になるのを感じた。
空を見上げる。
厚い雪雲の隙間から、薄い青空が見えていた。
冬の札幌は寒い。
それでも。
空は、ちゃんと晴れることがある。




