第9章 帳簿箱
二十八日は、風がやんで、よく晴れた。
朝の鐘のあと、エーリカが下りてきた。左の足から、一段ずつ。ゆうべ夜半すぎに裏口から出た人と同じ足音だった。何時に戻ったのかは知らない。俺は眠っていた。少なくとも、眠っていたことにしている。
目の下の色は、着任の朝より、少しだけ薄かった。
「マスター」とエーリカは言った。「階段の下の、古い帳簿箱。組合の規約の原本が、あそこにあると聞きました。出してもらえますか」
「規約、ですか」
「古いほうの。書庫の写しではなく」
*
階段の下には、扉のない物置がある。
ザザの箒が三本と、古い帳簿箱が積んである。木の箱で、角に鉄の補強が打ってある。誰が最後に開けたのか分からないような箱だ。
ひと月前、この箱には、もっと厄介なものが入っていた。いまは帳面しか入っていない。帳面のほうが、よほど気が楽だ。
いちばん下の箱を引きずり出した。蓋を開けると、埃が舞った。古い出納帳、古い依頼票の綴り、誰かの書きかけの手紙。その底に、羊皮紙の綴りが一冊、横たわっていた。表紙に、組合の焼き印が押してある。釘を三本、交差させた印だ。
取り出して、息を吹きかけた。埃がもう一度舞った。
エーリカがくしゃみをした。
小さな、ひどく礼儀正しいくしゃみだった。二度目は、手の甲で口を押さえて、こらえた。こらえきれずに、三度目が出た。
「……ごめんなさい」
「この箱の埃は、十年ものですから」と俺は言った。「年季が入っています」
*
エーリカはカウンターの端で、規約を開いた。
羊皮紙は硬く、頁をめくるたびに乾いた音がした。字は古い書き方で、ところどころ薄れていた。彼女は登録簿のときと違って、速くは読まなかった。一条ずつ、指でなぞって読んだ。
途中で、指が止まった。
しばらくそこにいて、また動き出し、もう一度止まった。
俺は杯を拭きながら、カウンター越しに覗いた。覗くつもりはなかったが、羊皮紙の字は大きかった。
『第三条 組合員とは、職を登録簿に記し、鉄の誓約を立てた者をいう。灯火教会の聖職者は、その誓願をもって誓約に代える。』
指は、それから何頁か先へ飛んで、また止まった。
『第九条 雑役は、荷運び、夜番、掃除その他の用をなす者として、その名を登録簿の末に綴じ足す。職の欄は空けおき、誓約を立てさせない。』
エーリカは何も言わなかった。
俺も何も訊かなかった。
訊かなくても、字は読めた。読めたが、それが何を意味するのか、俺は考えなかった。考えるのは、酒場番の仕事ではない。登録簿の後ろの麻糸のことを、ふと思い出しただけだ。
それと、いつかのダリオの軽口が一つ、耳の奥で鳴った。どの軽口だったかは、言わないでおく。ダリオの軽口は、だいたい酒が入っているので、誓約の外にある。
*
昼の鐘のあと、階段に日が差した。
ザザが、日だまりの段に腰を下ろしていた。鱗を乾かしているのだ。蜥蜴人は、日に当たらないと体が動かない。冬の晴れた昼は、ザザにとって何よりの馳走らしい。目を半分閉じて、下から上へ閉じる瞼を、ときどきゆっくり動かしていた。
*
昼すぎに、修道女のアガタが来た。
月に一度の施療の日だ。灯火教会の修道女で、六十を過ぎている。白い手袋をしている。組合の連中の古傷や咳を診て、薬草の包みを置いていく。誰かに頼まれて来るのではなく、昔から、そういうことになっている。
アガタは、ダリオの肘の擦り傷を診て、ドゥンの目に薬を差し、ザザの鱗の乾き具合を見た。それから、カウンターの端に目をやった。
エーリカが、規約を読んでいた。
アガタは、しばらくそれを見ていた。白い手袋の手を、前で軽く組んで。
「あなたは昔から」とアガタは言った。「いちばん後ろの頁から読む子でしたね」
エーリカが顔を上げた。
「先生」
「ええ」
アガタはそれだけ言って、ほほえんだ。それから、規約ではなく、エーリカの右の膝に目をやった。
「冷えますか」
「少し」
「寝る前に、これを」アガタは薬草の包みを一つ、カウンターに置いた。「温めて、布で巻いて。昔、あなたが手習い所の階段で転んだときと、同じ薬です」
エーリカは包みを受け取った。何か言いかけて、「ありがとうございます、先生」とだけ言った。
アガタは、何を読んでいるのかも、なぜ読んでいるのかも、訊かなかった。この人は、訊かないことにかけては、亜人より上手だ。嘘をつかない人が訊かないでいると、それは訊くよりずっと多くのことを言う。
帰りがけに、アガタは階段下の石取りの盤に目をとめた。ザザと俺が、ゆうべの続きのまま置いてある盤だ。
アガタは盤をひと目見て、言った。
「黒が、もう二目しか生きていませんね。そうでしょう、ザザさん」
ザザが、日だまりで目を開けた。
「そうだ」
黒は俺だった。訊かれたので、ザザは答えた。訊かれなければ、俺の負けは盤の上だけの秘密で済んだのだが。
*
夕方、隊長が来た。
巡回の途中だと言って、カウンターに寄りかかり、水を一杯だけ飲んだ。酒は飲まない。勤務中だからだ。
隊長の目が、カウンターの端の羊皮紙に行った。焼き印の表紙。開かれた頁。それから、エーリカの顔に行った。
何かに気づいた顔だった。
気づいて、それを顔の奥に仕舞った顔だった。隊長は何も訊かなかった。水を飲み干して、杯を置いた。置いた手で、羊皮紙の焼き印を、指先で一度だけ軽く叩いた。三本の釘の、真ん中の一本のあたりを。
「朔日は、十の鐘だ」
「知っています」
「知ってるのは知ってる」隊長は片側だけで笑った。「言っておきたかっただけだ」
隊長は出ていった。表の通りで、また誰かが「隊長」と呼んだ。
*
日が傾くころ、エーリカは紙を一枚出して、ペンを取った。
書いたのは、一行だけだった。
ペン先が紙を走る音は、短かった。書き終えると、彼女は紙をたたみ、蝋を垂らし、組合の印を押した。俺には文面は見えなかった。見ようともしなかった。
それから、裏口のほうへ顔を向けて、声をかけた。
「コル。参事会の書記局へ、一通お願い。ヨーナスに」
中庭の厩の梁の上で、羽が動く音がした。鴉人は伝言を一字も盛らないが、書状は開けない。開けないものは、知らない。知らないものは、言えない。だから組合は、大事な書状ほど鴉人に預ける。
コルが梁から下りてくるまでには、少しかかる。
封蝋が乾くのを、エーリカは窓の外を見ながら待っていた。




