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第8章 厩の二階

二十七日の夜は、風が強かった。


表の看板が、鎖の先で鳴っていた。錆びた釘の形をした鉄の看板で、風が吹くたびに、軒に当たって鈍い音を立てる。店の名前の由来だと言う者もいるし、看板のほうがあとだと言う者もいる。どちらにしても、風の夜はうるさい。


九つの鐘を過ぎて、店は混んでいた。


風の夜は、冒険者が外で飲まない。そのぶん、ここに来る。卓は六つとも埋まり、カウンターの前にも人が立った。煮込みの鍋が空になり、俺は二つ目の鍋を火にかけた。


エーリカは、カウンターの端にいた。昼のうちに、詰所へ着任の挨拶に行ってきたらしい。隊長の言いつけより三日遅れた、と本人は言っていた。詰所で何を言われたのかは言わなかった。言わなかったが、帰ってきたとき、外套の肩に焼き栗の殻が一つ載っていた。いまは出納帳を閉じて、麦酒を一杯だけ前に置いていた。昔、隅の席でそうしていたのと同じ飲み方だった。一杯を、なかなか減らさない。


*


窓際の卓に、若い剣士が三人いた。


真ん中の一人を、フーゴという。登録して二年になる。腕は悪くないと聞く。腕のわりに、口のほうが先に出る。あとの二人は、フーゴの言うことに笑う役だ。


三人とも、だいぶ酒が入っていた。


「灰色臭えんだよ、この店は」とフーゴが言った。声が大きかった。わざと大きくしていた。


裏口の向こうに、中庭がある。中庭の向こうに、厩がある。厩の二階では、ザザとドゥンが寝ている。コルは梁の上だ。今夜は夜番ではないから、ヴェイは谷の家にいるはずだった。


フーゴの声は、裏口の板を抜けて、中庭まで届く大きさだった。


「カラスがうるせえ。モグラが井戸を掘り返す。トカゲが床を這う」笑う役の二人が、ちゃんと笑った。「あいつらのせいで、俺たちの取り分が減るんだとよ。冗談じゃねえ」


カウンターの前の何人かが、顔をしかめた。何人かは、聞こえないふりをした。何人かは、少し笑った。この街の酒場は、だいたいそういう割合でできている。


隅の卓で、ダリオが眉をしかめた。杯を置いた。


*


フーゴが立ち上がった。


椅子が後ろに倒れた。フーゴは、倒れた椅子をまたいで、まっすぐ裏口へ向かった。閂に手をかけた。


「直接言ってやる。厩の二階でぬくぬく寝てる連中に」


笑う役の二人が、少し遅れて立ち上がった。


エーリカが、カウンターの端で振り向いた。


「やめなさい」


声は、小さかった。


嘘のように小さかった。風の音と、看板の音と、店じゅうのざわめきの中で、その声は、俺のところまでしか届かなかった。フーゴの背中には届かなかった。フーゴは閂を持ち上げかけていた。


エーリカは、もう一度口を開いた。開いて、閉じた。立ち上がりかけて、膝をかばって、立ち上がるのが一呼吸遅れた。


射る前に、いつも一呼吸遅かった。彼女自身が、そう言っていた。


*


一呼吸のあいだに、ダリオが動いた。


大男は、卓のあいだを三歩で抜けた。フーゴの後ろに立ち、襟首を、二本の指でつまんだ。


つまんで、持ち上げた。


フーゴの足が、床から浮いた。


浮いた本人が、いちばん驚いた顔をしていた。踏ん張る床がなくなって、足だけが空中で走るように動いた。笑う役の二人は、笑う役を忘れて口を開けていた。


「閂から手を離せ」とダリオは言った。「酒が入ってるから言うが、これは嘘じゃねえぞ。お前の首より閂のほうが高え」


フーゴは閂から手を離した。離すしかなかった。


ダリオはフーゴを床に下ろした。下ろすときに、少しだけ揺すった。フーゴは尻もちをついた。窓際の卓の誰かの肘が当たって、杯が一つ倒れた。麦酒が床に広がった。


俺は、その間、数えていた。


店の中に二十一人。表の扉が一つ。裏口が一つ。階段が一つ。刃物を抜いた者はいない。抜きそうな者は、二人。その二人は、ダリオの背中を見て、抜くのをやめた。


フーゴは立ち上がり、何か言い返しかけて、やめた。仲間の二人に引っ張られて、勘定を卓に叩きつけて出ていった。表の扉が開いて、風が入って、閉まった。


倒れた杯の麦酒は、俺が拭いた。


拭いているあいだに、カウンターの前の誰かが、隣の誰かに言うのが聞こえた。


「新しい組合長は、何もしなかったな」


「女だからな」


「女だからじゃねえよ。前のは男で、もっと何もしなかった」


二人は笑って、別の話に移った。噂というのは、こうやって一晩で形ができる。明日の朝には、黒猫の尾でも、広場の屋台でも、新しい組合長は「何もしなかった人」になっているだろう。


*


店が元のざわめきに戻るまで、少しかかった。


エーリカは、カウンターの端で、両手を組んでいた。


組んだ手の、右の親指が、左の人差し指の腹をなぞっていた。弦の硬い皮のあるところを、何度も、何度も。麦酒は、一口も減っていなかった。


ダリオが戻ってきて、カウンターに肘をついた。


「組合長、気にすんな。ああいうのは、口で言っても聞かねえ」


「ありがとう」とエーリカは言った。それから、組んだ手を見たまま、小さく言った。「マグダなら、一言で止めたでしょうね」


隊長、ではなかった。名前だった。


ダリオは何か言いかけて、やめた。俺も何も言わなかった。隊長は今夜ここにいない。いない人間の一言は、誰にも借りられない。


「その麦酒、ぬるくなりましたね」と俺は言った。「換えましょうか」


「いいの」エーリカは杯を両手で包んだ。「ぬるいほうが、減らないから」


*


夜半の鐘で、店を閉めた。


最後の客を送り出し、椅子を上げ、灯を一つ残して消した。階段を上がって、廊下の奥の自分の部屋に入った。


壁一枚向こうで、七歩が鳴っていた。止まる。七歩。今夜は、いつもより間が短かった。


寝床に入って、しばらく聞いていた。


やがて、足音がやんだ。


やんだまま、しばらく何も聞こえなかった。風の音と、看板の音だけがした。


それから、組合長の部屋の扉が、静かに開いた。廊下を、左の足が先に踏んだ。右があとから軽く追いつく。俺の部屋の前を通り過ぎて、階段を下りていく。一段ずつ。手すりには頼らない。


下で、裏口の閂を外す音がした。


重い閂だ。どんなに静かに外しても、木が金具をこする音は、建物じゅうに伝わる。


裏口の戸が開く音。風が一度、階段を吹き上がってきた。戸が閉まる音。中庭の霜を踏む足音は、ここまでは届かない。少しして、厩の屋根のほうで、大きな羽が一度だけ羽ばたいた。


俺は、確かめに出なかった。


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