第7章 卵を一つ
二十五日は、朝から曇っていた。
昼の鐘が鳴り終わってしばらくすると、表の扉が細く開いて、若い男が体を横にして入ってきた。扉を大きく開けると冷えるから、と思っているらしい。開けても閉めても、冷えるのは同じだ。
治安維持隊のトマスだった。頬にまだ産毛が残っている。今日は非番らしく、灰色の外套ではなく、洗いざらしの上着を着ていた。上着の裾に、赤い筋が一本ついている。ひと月前、赤蕪の汁を拭いた跡だ。洗っても落ちなかったらしい。
「卵、ありますか」
「ありますよ」
トマスはカウンターの前に立って、握っていた拳を開いた。銅貨が二枚。
数えた。一枚、二枚。
もう一度数えた。一枚、二枚。
三度目を数えようとしたので、俺は言った。
「二枚です。私にも見えています」
「いや、なんか、三枚あった気がしたんすよ。給金もらったとき」
「では、一枚はどこかで卵になったんでしょう」
「なってないっす。卵はここでしか食べないんで」
トマスは上着の隠しを裏返した。糸くずと、隊の詰所の合鍵と、乾いた栗の殻が一つ出てきた。銅貨は出てこなかった。
トマスは真剣に考える顔をした。考えても、銅貨は増えなかった。
*
カウンターの端の瓶は、赤い。
赤蕪の漬け汁に、鶉の卵が沈んでいる。毎朝十二個漬ける。昼を過ぎたいまは、半分くらいに減っていた。
俺は蓋を開けて、木の匙で卵を一つすくった。底のほうの一つはよけた。小皿に載せて、トマスの前に置いた。
トマスは卵をつまんで、しばらく眺めた。赤く染まった殻を、光にかざすように見る。それから一口で口に入れた。
「……これっすよ、これ」
目を閉じて噛んでいる。この若者は、給金が出ると、まずここに来て卵を一つ食べる。二つ食べたことはない。給金を大事にしているのだ。
階段の下の暗がりで、ザザが箒を動かしていた。トマスは卵を飲み込んでから、そちらに声をかけた。
「ザザさん、こんちは。寒くないっすか」
「寒い」とザザは言った。
それで終わりだった。トマスは、続きを待つ顔をして、しばらく待った。続きはなかった。訊かれたことには答えた。それ以上のことは、ザザの仕事ではない。
「……そうっすよね」とトマスは言った。
*
「そういや」トマスは口をもごもごさせながら言った。「組合、大変なんすね」
「何がです」
「亜人を外せって、参事会から来たんでしょ。下町じゅう、その話っすよ。黒猫の尾でも、広場の屋台でも」
「みんな、なんて言ってます」
「半々っすね」トマスは指を折った。「灰色やトカゲがいなくなりゃ、下町も静かになるって言う人と、荷運びがいなくなったら誰が樽を担ぐんだって言う人と。酒屋の親父さんなんか、後のほうっす。樽は自分じゃ担がない人なんで」
噂は、伝令より速い。コルが運ばなくても、街は勝手に運ぶ。運びながら、それぞれの都合で少しずつ形を変える。
「それで、朔日に、参事会の書記さんが組合に来るんす。検分ってやつで。帳面を確かめに」トマスは指を一本立てた。「で、隊長が付き添うことになったっす。参事会の人が組合に検分に来るときは、隊が付き添う決まりなんすよ。揉めたときのために」
「揉めるんですか」
「揉めないための付き添いっす」トマスはなぜか得意げだった。「隊長がいると、だいたい揉めないんで」
それは本当だろう、と俺は思った。
「来るのは、どなたです」
「ヨーナスさんって人らしいっす。参事会の書記局の。いつも帳面を胸に抱えて歩いてる人っすよ。広場で一度、帳面ごと転んでたの見ました」
カウンターの端で、エーリカが小さく息を吐いた。
「ヨーナス」と彼女は言った。独り言のような声だった。「袖口に、インクをつけている子ね」
書記局で、隣の机にいた男なのかもしれない。エーリカはそれ以上何も言わず、帳面に目を戻した。今朝から、組合の出納帳を一冊ずつ読んでいる。顔は上げなかった。上げなかったが、頁をめくる手は、さっきから止まったままだった。
*
「隊長って、隊の中じゃどうなんです」と俺は訊いた。
訊いてから、余計なことを訊いたかと思った。トマスは気にしなかった。
「好かれてるっすよ。みんなに」トマスは即答した。「隊の連中にも、門番にも、屋台の婆さんにも、酔っ払いにも。隊長が広場を一回りすると、十人くらいに声かけられるっす。俺なんか、一人も声かけられないのに」
「それは、まだお若いからでしょう」
「そうっすかね」トマスは首をかしげた。「でも、隊の誰に訊いても、隊長が何考えてるかは知らないって言うんすよ。好きだけど、分かんない。分かんないけど、好き。そういう人っす」
トマスは、それから急に背筋を伸ばした。眉間に皺を寄せ、顎を引き、声を低くした。
「『予算で飯を食ってる』」
隊長の物真似のつもりらしかった。口の中に、まだ卵の残りが入っていた。
トマスはむせた。
盛大にむせた。俺は水を出した。トマスは水を飲んで、涙目で「すんません」と言った。
カウンターの端で、エーリカが下を向いていた。肩が少し揺れていた。帳面を読んでいるのだと思うことにした。
*
広場のほうから、鋳掛け屋の呼び声が聞こえてきた。
「鍋、釜、直しまぁす」
曇った昼の空気の中で、声は低く、遠くまで伸びた。鋳掛け屋は毎月、同じ日に同じ声で回ってくる。去年も来た。たぶん来年も来る。鍋の底の焦げも、ついでに見てもらえばよかったかもしれない。
*
水を飲み終えたトマスに、エーリカが顔を上げて言った。
「検分は、朔日の何刻ですか」
トマスは、急に話しかけられて背筋を伸ばした。新しい組合長と話すのは初めてだったらしい。
「じ、十の鐘っす。朝の」
「ありがとう」
エーリカはそれだけ訊いて、また帳面に目を戻した。トマスは、何か言い足したほうがいいのか迷う顔をして、結局、何も言い足さなかった。
「卵、もう一ついかがです」と俺は言った。
「いや、給金、大事にしないと」
いつもの返事だった。トマスは扉のほうへ行きかけて、立ち止まった。振り返った。
「あ、そうだ。言っとこうと思ってたんすけど」
トマスは声を少しだけ落とした。噂話をするときだけ、この若者は大人の声になる。
「若い剣士の連中が、ゆうべ黒猫の尾で、亜人のせいで俺たちの取り分が減るって、ぼやいてたっすよ。けっこう、酒が入ってて」




