第6章 裏口のスープ
二十四日の夜は、霜の夜になった。
八つの鐘が鳴るころ、裏口の閂の向こうで、小さな咳が二つした。
咳で分かる。毎晩来る客だ。俺は暖炉の脇の鍋を火から下ろして、木べらで底をひとかきしてから、裏口へ運んだ。
閂を外すと、中庭の冷たい空気が入ってきた。
夜の中庭は、白かった。井戸の縁にも、厩の屋根にも、霜が降りている。厩の二階の窓には、細い灯が一つ。ドゥンの灯だ。目の弱い土竜人は、灯を小さくしておくほうが落ち着くのだという。屋根の棟の上に、黒い塊が一つうずくまっていた。コルだ。鴉人は寒い夜でも、高い所で眠りたがる。下町のほうから、黒猫の尾の笑い声が、壁を二つ三つ越えて薄く届いていた。
その白い中庭に、小さな影が二つ立っていた。
灰狼族の子どもだ。下の谷のヴェイのところの、ハクとチィ。上のハクは八つくらいの男の子で、下のチィは五つくらいの女の子だ。二人とも、毛皮の上に大人の古い上着をかぶっている。上着の裾が霜を引きずって、白い筋を二本ひいていた。
裏口でスープを出すのは、この店の決まりだ。雑役の亜人と、その家の子には、毎晩一杯。組合の規約に書いてあるわけではない。店の決まりだ。
ひと月前まで、鍋を持って裏口に出るのは、給仕の娘の仕事だった。いまは俺が出る。
*
「こんばんは」とハクが言った。大人の挨拶のつもりらしい。低い声を作っていた。
「こんばんは」と俺は言った。「今夜は豆と赤蕪です」
ハクは椀を二つ差し出した。自分のと、妹のと。
俺がまず一つ目をよそうと、ハクはそれを受け取って、自分では飲まずに妹に渡した。兄の顔をしていた。二つ目は自分のだ。
チィは椀を両手で抱えて、湯気に顔を突っ込んだ。それから、兄の椀の中を覗いた。
「お兄ちゃんのほうが、じゃがいもが大きい」
「同じだよ」
「大きい」
「同じだって」
亜人の子は嘘がつけない。ハクの「同じだ」は、ハクがそう思っているから言えるのだ。チィの「大きい」も、チィがそう思っているから言える。どっちも本当で、じゃがいもだけが黙っていた。
俺は鍋の底を木べらでさらって、残っていたじゃがいものかけらを、チィの椀に一つ落とした。チィは満足した。ハクは不満そうだったが、兄なので黙っていた。
鍋の底に、豆が少し焦げついていた。木べらで剥がす。焦げは、剥がしても剥がしても少し残る。明日の朝、灰で磨けば取れる。たぶん取れる。
*
背中で、階段が鳴った。
左の足が先で、右があとから軽く追いつく音。途中で止まった。
振り返ると、階段の中ほどに、エーリカが立っていた。灯の届かないところで、こちらを見ていた。いつからいたのかは分からない。
目が合うと、彼女は残りの段を下りてきた。裏口の、俺の横に立った。子どもたちを怖がらせない距離で、止まった。
チィが椀から顔を上げて、新しい大人を見た。ハクは妹の前に半歩出た。
「こんばんは」とエーリカは言った。
「……こんばんは」とハクが言った。低い声は、もう作っていなかった。
エーリカは子どもたちの足元を見ていた。それから、俺に小声で言った。
「昼に、中庭の霜に、小さな足跡が二つありました。裏口の前で止まって、また戻っていく足跡。片方は、右足を少し外に向けて歩く子ね」
俺はチィを見た。
チィは椀を抱えたまま、片足で反対の足の甲を掻いていた。下ろした右足の爪先が、少し外を向いていた。
昼のあいだに、子どもたちは一度ここへ来て、裏口が閉まっているのを見て帰ったのだろう。エーリカはその足跡を見て、今夜も来ると思って、階段で待っていた。俺は昼の霜など見ていなかった。
*
チィが椀を傾けて、最後の一口を飲んだ。それから、まっすぐ俺を見て言った。
「おじさんのスープは、前のほうがおいしかった」
ハクが慌てて妹の袖を引いた。
「前のおねえちゃんのときのほうが、おいしかった」チィは続けた。「おねえちゃんは、赤蕪をもっと小さく切ってた」
亜人の子は、嘘がつけない。
「覚えておきます」と俺は言った。「赤蕪は、小さく」
俺は、赤蕪の切り方まで覚えられていたことに、少し感心した。子どもは、大人が思うよりずっとよく見ている。そして亜人の子は、見たものをそのまま言う。
エーリカの口の端が、ほんの少し動いた。笑いをこらえたのか、別のものをこらえたのか、俺の目では分からなかった。
「前は、あの白い耳の子が運んでいたのでしょう」とエーリカは言った。チィの椀を見たまま、静かな声だった。「あの子がいなくなってから、スープは、あなたが」
「ええ」と俺は言った。
鍋が少し傾いていた。持ち直した。
*
中庭の向こうの暗がりから、足音が近づいてきた。
大人の灰狼の足音だ。首の下に白い毛の房がある。ヴェイが、子どもたちを迎えに来た。夜番の前に、子を谷まで送っていくのだろう。
ヴェイは子どもたちの頭に手を置いて、それから、エーリカのほうへ鼻を少し上げた。
灰狼族は、人を匂いで覚える。顔より先に匂いを覚えて、匂いで呼び分ける。新しい組合長の匂いを、ヴェイはいま覚えたのだろう。インクと、古い紙と、膝に塗る軟膏の匂いあたりか。俺の鼻では、そこまでしか分からない。
それから、エーリカを見た。
「組合長」とヴェイは言った。
コルは伝言を一字も盛らない。だが、噂を運ぶのは速い。内示のことは、もう厩にも、下の谷にも届いているらしかった。
「組合長は、僕たちを外すのか」
エーリカは答えなかった。答えられなかったのだと思う。口を開いて、閉じた。
ヴェイは嘘がつけない。だから、答えを待つ代わりに、問いを一つ置いた。
「外さないなら、何をするんだ」
それにも、エーリカは答えなかった。
ヴェイはしばらくエーリカを見ていた。それから、子どもたちの手を取った。チィが椀を俺に返して、「ごちそうさま」と言った。ハクも言った。
手を引かれながら、チィが一度だけ振り返った。
「おばさん、足、痛いの」
「少しね」とエーリカは言った。「寒い夜は、少し」
チィはうなずいて、自分の右足を見た。それから前を向いた。三人の足音が、中庭の霜を踏んで遠ざかりかけた。
エーリカが一歩、裏口から出た。
ヴェイを呼び止めて、何か言った。小声だった。ヴェイが振り返って、うなずいた。それだけだった。
俺には聞こえなかった。
あの白い耳の娘なら、聞こえただろう。そう思った。思っただけだ。鍋は冷えかけていて、閂を戻す手が少しかじかんだ。




