第5章 夫人の手紙
ヘルマンは、カウンターの前まで来ると、ハンカチを鼻から離さないまま、上着の内から手紙を一通出した。
厚手の紙で、薄紫の封蝋が押してある。封蝋の色まで、上町の匂いがした。
「ランゲ様」ヘルマンは両手で手紙を差し出した。よく磨いた声だった。磨きすぎて、声のほうが本人より先に部屋に入ってくる。「奥様より、お預かりしてまいりました。奥様は、お答えを急かされません。ただ、お待ちになります」
「ありがとう」
エーリカが受け取った。
ヘルマンは一礼した。顔を上げるとき、目が一度だけ梁の焦げに行った。ひと月前の夜、この人も、あの焦げができたばかりの店に立っていた。ハンカチの下で、何を思い出したのかは分からない。
それから、言わなくてもいいことを一つ言った。
「奥様は、この手紙を三度、書き直されました」
「三度」
「はい。三度とも、同じ文面でございました」
そう言い終えるか終えないうちに、隅の卓でダリオが盛大にくしゃみをした。
ヘルマンの肩が、ほんの少し跳ねた。磨いた声の続きは、くしゃみに吹き飛ばされて、どこかへ行った。ヘルマンはハンカチを鼻に押し当て直し、もう一度だけ一礼して、来たときと同じ足取りで出ていった。表の扉が閉まると、店の匂いが少しだけ元に戻った。
三度書き直して、三度とも同じ文面。それがどういう人なのか、俺はしばらく考えた。迷ったのか、迷わなかったのか。たぶん、迷わなかったことを確かめるために、三度書いたのだろう。
*
エーリカは封蝋を割って、手紙を開いた。便箋は二枚だった。
俺の側から見えるのは、便箋の裏に透けた字だけだった。細くて、右に上がっていく字だ。行の終わりの払いが長い。急いで書いた字ではない。急ぐ必要のない人の字だった。
隊長は、まだいた。すぐ出ると言っていた人が、栗の殻を一つずつ割りながら、手紙を読むエーリカの横顔を見ていた。
一枚目を読み終えて、エーリカは小さく息を吐いた。
「わたしを推したのは、夫人だそうです」
隊長は驚かなかった。栗を割る手も止めなかった。知っていた、という顔ではなかった。そうだろうと思っていた、という顔だった。
「ロズモンド夫人が、参事会に、わたしの名を出したと」
ロズモンド夫人。上町の貴婦人で、参事会に顔が利く。ひと月前、紅玉を盗まれて、この店に隊が踏み込むきっかけを作った人だ。俺はまだ、一度も顔を見たことがない。
エーリカは二枚目に目を移した。そして、一つの行を、声に出して読んだ。
「『あなたは昔から、見たものを口に出さない人でした。だから、お願いしたのです』」
*
「買いかぶりです」とエーリカは言った。
手紙を膝の上に置いて、指先で便箋の端を押さえた。弦の硬い皮のある指だった。
「わたしは、射る前に、いつも一呼吸遅かった。的が止まるのを待ってしまう。止まらない的は、待っているうちにいなくなる。組合長というのは、たぶん、止まらない的を射る仕事です」
隊長は、栗の殻を手のひらに集めた。
「お前は、そう読むのか」
「ほかに、どう読むの」
「黙ってやれ、って意味だ」隊長は殻をまとめて、カウンターの端に置いた。「見たものを口に出すな。騒がずに片づけろ。あいつは、そういう頼み方をする」
「隊長は、夫人を悪く言うのね」
「褒めてるんだ」隊長は片側だけで笑った。「あいつは、損をする賭けはしない。お前を推したのも、勝てると踏んだからだ」
エーリカは答えなかった。
俺は杯を拭いていた。二人の読み方の、どちらが正しいのか、俺には分からない。たぶん、どちらも半分ずつ正しい。信じているから頼む。勝てると踏んだから頼む。人は、その二つを同時にやれる。俺もやる。
*
エーリカは便箋を少し下へずらして、最後の行に目をやった。
「それから、マスターに」
「私に、ですか」
「『酒場番の方にも、よろしくお伝えください』」
俺は杯を拭く手を止めなかった。止めると、何かあると思われる。
よろしく、と言われる覚えはなかった。上町の貴婦人に、下町の酒場番がよろしくされる理由は、ふつうはない。ないはずのものが手紙に書いてあると、人は理由を探す。俺は探さなかった。探しても、見つかるのはたぶん、ろくなものではない。
隊長は、最後の栗を割っていた。殻が二つに割れて、中身がカウンターに転がった。隊長はそれを拾って、口に入れた。何も言わなかった。
エーリカは手紙をたたんだ。一度、二度。たたみ終えたとき、ほとんど声にならない声で言った。
「アーデルハイト」
それが夫人の名だった。隊長がさっき言いかけた「アーデル」の、続きの音だった。
三十年前の、射場の塀の上を思い出した。覗いていた町の娘は、三人だった気がする。一人は塀の上で背伸びをして、射手に野次を飛ばしていた。背が高くて、声が大きかった。一人は黙って、矢の行き先ばかり見ていた。もう一人は、塀の上にいるのに、なぜかいちばんいい服を着ていた。籠に林檎を入れてきて、外れた矢の数だけ、射手に林檎を投げてよこした。
あれが誰と誰と誰だったのか、俺は確かめたことがない。確かめる理由もなかった。いまも、ない。
隊長は、手のひらの栗の殻を暖炉に放り込んだ。それから立ち上がって、「明日は詰所に来い。朝のうちにだ」とエーリカに言い、出ていった。表の通りで、また誰かが「隊長」と呼び、短い返事が返った。
*
七つの鐘を過ぎると、店はいつもの夜になった。
冒険者たちが、日の沈んだ街から腹を空かせて帰ってきた。煮込みが売れて、麦酒が売れた。窓際の卓では、賭け札で負けた魔法使いが、負けたのは札のせいだと言い張っていた。札は何も言わなかった。俺は黒板の「今日の煮込み 豆と羊」の羊のところを消して、「豆」だけにした。羊は売り切れた。
カウンターの前では、常連の盗賊が二人、新しい組合長の噂をしていた。
「女だってな。弓の」
「参事会の書記だった女だろ。帳面の虫だ」
「帳面の虫に、組合の荒くれが回せるかね」
「前のは、帳面の代わりに腹で回してたからな」
二人は笑った。俺は麦酒を注いだ。帳面の虫が、今日一日で、登録簿を一冊読み通したことは言わなかった。訊かれていない。
エーリカは、いつの間にか二階へ上がっていた。
夜半の鐘が鳴った。十二打。大聖堂の鐘は、夜半だけ少し遅く鳴る気がする。鳴らすほうも眠いのだろう。
十二打目の余韻が消えても、天井は鳴っていた。
七歩。止まる。七歩。
右の足音が、少し軽い。




