第4章 二人の女
入ってきたのは、治安維持隊の隊長だった。
本当は、扉が開く前から分かっていた。表の通りで、屋台の婆さんが「隊長、栗持ってきな」と叫び、通りすがりの酔っ払いが「隊長、今夜は見逃してくれよ」と笑い、門番帰りの若い隊員が「お疲れさまです」と声を張り上げた。そのたびに、短い返事が一つずつ返った。下町で、あれだけ声をかけられる役人はほかにいない。
名をマグダという。背が高く、歩き方に迷いがない。抜く必要のない剣を腰に下げている女の歩き方だ。ひと月前の夜、この店の扉を叩き壊して踏み込んできた隊を率いていたのも、この人だった。
隊長は、外套の肩の冷えを手で払いながら、店の中を見回した。客のいない刻の錆び釘亭。暖炉。隅の卓に、空の杯を抱いたまま舟をこぎ始めたダリオ。カウンターに俺。その前に、新しい組合長。
「組合長」と隊長は言った。
「隊長」とエーリカは言った。
それだけだった。それだけで、二人が初対面でないことは分かった。
初対面の人間同士は、挨拶のあとに一呼吸おく。相手の値踏みをする間だ。この二人には、その間がなかった。値踏みなら、とうの昔に済ませている。そういう間合いだった。
*
隊長はカウンターの、エーリカから椅子一つぶん空けた場所に腰を下ろした。
「巡回の途中だ。すぐ出る」と言って、外套の懐から紙包みを出した。焼き栗だった。広場の屋台の婆さんが、隊長が通るたびに押しつけるのだという。隊長は包みを開いて、栗をカウンターに一つずつ並べた。六つあった。一つをエーリカの前に、一つを俺の前に転がした。残りの四つは、自分の前に並べたままにした。
食べる気があるのかないのか、分からない並べ方だった。
「着任の挨拶に、隊の詰所まで来ると思ってた」と隊長は言った。
「行くつもりでした」
「三日後にか」
「……明日には」
隊長は、片側だけで笑った。笑うと頬の傷が引きつれて、もう片側は動かない。
「昔からだな。手習い所の、アガタ先生の墨壺のときも――」
エーリカが隊長を見た。
それだけで、隊長は口を閉じた。墨壺の話は、そこで終わった。墨壺に何があったのか、俺には分からない。分からないが、二人のどちらにも、続きを言われると困る理由があったらしい。
*
エーリカは、カウンターの上の書状を、隊長のほうへ滑らせた。
隊長は読んだ。俺の倍の速さで読み終えて、もう一度、終わりのほうだけ読み直した。
それから、外套の喉元に手をやった。
鉄の留め金が、上下に二つ並んでいる。その上のほうを、隊長は指で一つ外した。外套の襟が、少しだけ緩んだ。
口調が変わった。
「議決じゃないな、これは」隊長は書状を指で弾いた。「書記局の名だけだ。議決なら、決めた参事の名前がずらっと並ぶ。参事会は、自分たちの名前で亜人を追い出したくないんだ」
「ええ」
「だから、お前に自分からやらせたい。新しい組合長が、自分の判断で、亜人を登録簿から外しましたって形にしたい。そうすりゃ、参事会の手は汚れない。汚れるのはお前の手だけだ」
エーリカは黙っていた。分かっている、という黙り方だった。
「ついでに言っとく」隊長は栗を一つ指で転がした。「亜人を外せば、あいつらは下の谷で日銭を探す。仕事のない灰色やカラスが街をうろつけば、喧嘩が増える。喧嘩が増えれば、隊の仕事が増える。隊の予算は増えない」
「隊長らしい心配ね」
「私は予算で飯を食ってる」隊長は肩をすくめた。「やさしさで食ってるわけじゃない」
それが本音なのか、本音の手前に置いた衝立なのか、俺には分からなかった。
隊長が留め金を外したのを、エーリカは見ていなかったと思う。隊長自身も、外したことに気づいていないように見えた。外套の襟が緩んで、声が半歩、詰所から遠のいた。それだけのことだ。それだけのことに、この店で気づいたのは、たぶん俺だけだった。
*
隊長は書状をたたんで、エーリカの前に戻した。戻しながら、俺のほうに目をやった。
「この紙、あの酒場番に先に見せたのか」と隊長は言った。冗談の口ぶりだった。「物好きだな」
エーリカの指が、書状の端に伸びた。紙の角を、指でそろえた。そろっている角を、もう一度そろえた。
「相談、というほどのことではありません」
下手だ、と俺は思った。
嘘としては、ずいぶん下手だった。ほんとうに相談でなかったなら、角はそろえなくていい。隊長にも、それは分かったはずだ。
隊長は、それ以上は訊かなかった。並べた栗を一つ取って、殻を割った。
*
隅の卓で、ダリオが寝言を言った。
「……組合長、長の命で……おかわり……」
隊長が振り返った。ダリオは鼾をかいていた。隊長は向き直って、栗を口に入れた。
「で、どうする」
「まだ、決めていません」
「決めてないのか、決めたくないのか」
エーリカが答えかけたとき、ダリオが二度目の寝言を言った。
「……おごりだって……酒場番が……」
隊長は、今度は振り返らなかった。俺も聞かなかったことにした。エーリカの答えは、寝言に押し流されて、どこかへ行ってしまった。
*
二人を見ていて、思ったことがある。
隊長はたぶん、エーリカのことを、やさしすぎて決められない女だと見ている。決められないあいだに、いちばん弱いところから順に損をする。それを心配している顔だった。
エーリカのほうは、隊長のことを、誰にでも笑うから誰のことも信じていない女だと見ている。屋台の婆さんにも、門番にも、酔っ払いにも笑う。笑いの数が多い人間は、本気の笑いをどこに仕舞っているのか分からない。そういう目で、隊長の並べた栗を見ていた。
どちらの見立ても、半分は当たっているのだろう。残りの半分は、たぶん外れている。どっちがどう外れているのかは、俺にも分からない。俺の見立てだって、半分くらいは外れているはずだ。
隊長は四つ目の栗を割って、手を止めた。
「アーデルなら」と、隊長は言いかけた。
そこで、言葉を切った。俺がいることを思い出したような切り方だった。エーリカは隊長を見なかった。カウンターの木目を見ていた。
アーデル、というのが誰なのか、俺は知らなかった。
*
表の扉が開いた。
黒い上着の、痩せた初老の男が入ってきた。胸に、ロズモンド家の紋が縫い取ってある。男はまず店の匂いに眉を寄せ、上着の隠しからハンカチを出して、鼻に当てた。
その顔には、覚えがあった。ひと月前の夜、隊長の後ろについてこの店に入ってきた、ロズモンド館の執事のヘルマンだ。
男はハンカチを当てたまま、よく磨いた声で言った。
「ランゲ様に、奥様からでございます」




