第3章 内示
六つの鐘は、夕べの祈りの鐘でもある。
大聖堂の鐘が六つ鳴って、城門が閉まる。下町の通りから人の声が一度引いて、錆び釘亭はいちばん静かな刻に入る。冒険者たちが腹を空かせて戻ってくるのは、日が沈みきってからだ。六つから七つ半まで、この店にはたいてい客がいない。
今日は、二人いた。
一人は隅の卓のダリオで、空の杯を前に、俺が気まぐれを起こすのを待っている。待っても起こさない。
もう一人が、階段を下りてきた。左の足が先で、右があとから軽く追いつく。
エーリカは、カウンターの前に立って、書状を置いた。半刻前に届いて、封を切らずにいた参事会の書状だ。封蝋は、もう割れていた。いつ割ったのかは知らない。二階へ上がっていた、その半刻のあいだのどこかだろう。
書状の上に置いた指先を、俺は見た。人差し指と中指の腹に、古い硬い皮がある。弓の弦が、何千回もそこを通った跡だ。弓を置いて何年になるのか知らないが、皮のほうはまだ弓を覚えている。
「読んでもらえますか」と彼女は言った。
「私が、ですか」
「声に出さなくていい」
俺は書状を手に取った。厚い紙だった。
『冒険者組合長 エーリカ・ランゲ殿
内示
市参事会は、亜人を抱える組合への助成のあり方を議しつつある。ついては師走の朔日までに、貴組合の登録簿より亜人の組合員を除き、その旨を書面にて届け出られたい。届けなきときは、年明けより貴組合への助成を差し止める。
市参事会書記局』
二度読んだ。二度読んでも、字は変わらなかった。
「参事の名が、一つもありません」とエーリカは言った。
言われて、もう一度見た。確かに、終わりにあるのは書記局の名だけだ。参事会のことはよく知らないが、偉い人間の名前が一つもない書状というのは、だいたい、偉い人間が名前を出したくない書状だ。
「私には、よく分かりませんね」と俺は言った。「雇われの酒場番ですから」
「でも、思うことはあるでしょう」
「酒場番が思うことは、だいたい三つです。今夜は客が入るか。酒樽は足りるか。つけは払われるか」
エーリカは俺の顔を見た。俺の顔のどこかに、四つ目が書いてあるかどうかを確かめるような目だった。書いてあったかどうかは、俺には分からない。彼女はそれ以上は訊かなかった。
*
「亜人を外せって?」
隅の卓から、ダリオが首を突っ込んできた。空の杯を持ったまま、カウンターまで来る。聞き耳を立てるには、店が静かすぎた。
「ザザやコルを、組合から追い出せってことか」
「登録簿から、です」とエーリカは言った。
「同じこったろ」ダリオは顔をしかめた。「あいつら、嘘一つつかねえで、俺より真面目に働いてるぜ」
それは本当だった。亜人は嘘がつけない。月影の戒めとかいう古い掟で、口から偽りが出ないのだそうだ。黙ることはできる。はぐらかすことも、問いで返すこともできる。でも、嘘は出ない。
「俺たちとは違うってわけだ」とダリオは言って、なぜか胸を張った。「俺たち組合の剣士や盗賊や魔法使いは、登録のときに鉄の誓約を立てる。組合の建物の中じゃ、仲間に嘘はつかねえ。ただし三つだけ例外がある」
指を一本ずつ立てた。
「組合長に言えと言われたとき。金をもらった相手のため。それと」三本目の指で、空の杯を叩いた。「酒が入ってるとき」
「長の命、代価、酒精」とエーリカが言った。
「そう、それだ」
「建物の外では、誓約は効きません」
「そう、それもだ」ダリオは笑った。「で、組合長は誓約の主だから、そもそも縛られねえ。灯火教会の坊さんたちは、誓約なんかなくても嘘をつかねえ。灯の前で、そういう誓いを立ててるからな。酒場番は組合を抜けてるから、好きに嘘がつける」
「つきませんよ」と俺は言った。
「ほらな。いまのが嘘かどうか、誰にも分からねえ」
ダリオは満足そうにうなずいて、それから、階段の下の暗がりに目をやった。ザザが、箒を抱いて壁になっていた。
「トカゲは誓わなくていいから気楽だよな」とダリオは言った。「嘘がつけないんだから、誓うもへったくれもねえ」
ザザは何も言わなかった。訊かれていないからだ。
エーリカも何も言わなかった。ただ、ダリオの言葉が床に落ちるのを、目で追ったように見えた。
まとめておく。この街で嘘をつけないのは、亜人と坊さん。組合の連中は、この建物の中で、三つの例外のほかは嘘をつかない。組合長と、組合の外の人間は、つける。俺はつける側だ。つかないとは言っていない。
*
「組合長」とダリオが言った。急に改まった声だった。「一つ頼みがある。長の命で、俺に『酒場番が今夜はおごりだと言った』って言わせてくれ」
「なぜ」
「組合長に言えと言われたことは、嘘でも言っていいんだろ。俺が言う。酒場番が聞く。酒場番が、なるほどと思って注ぐ」
「思いません」と俺は言った。
「長の命は、使いません」とエーリカは言った。真顔だった。
それから、少しだけ声を落として続けた。
「組合長が言えと言えば、誓約を立てた者でも嘘をつける。そういう力が、この席にはついてくる。わたしは、その力を一度も使いたくない」
ダリオは何か言い返しかけて、やめた。空の杯を、カウンターにそっと置いた。冗談の行き場がなくなった顔だった。
暖炉の薪が一つ、はぜた。夕べの祈りの鐘の余韻は、もうどこにも残っていなかった。祈る人間は大聖堂にいて、祈らない人間はここにいる。暖炉の火は、どちらにも同じだけ暖かい。
*
エーリカは、書状をたたみ直して、また開いた。
「外せば、助成は残る」と彼女は言った。俺に言ったのか、自分に言ったのか、分からない声だった。「外さなければ、年明けから助成が止まる。助成が止まれば、組合は依頼料から取る分を増やすしかない。そうすれば、人間の冒険者の取り分が減る」
「助成というのは、いかほどです」と俺は訊いた。
「年に、金貨百二十枚」
俺は口笛を吹きかけて、やめた。百二十枚。この店の酒樽を、ひと冬ぶん買ってもまだ余る。前の組合長が亜人を目の敵にしていた理由の、半分くらいは分かった。
エーリカは答えを出さなかった。出せない、という顔ではなかった。出したくない答えが、もう目の前にあるという顔だった。
表の扉が開いた。
閉まったはずの城門の外から吹いてきたような、冷たい風が入ってきた。風と一緒に、背の高い女が一人。灰色の外套に、革の胸当て。鉄を打った靴が、新しい樫の扉の敷居を鳴らした。
左の頬に、古い刃物の傷が一本、耳の下から口の端まで走っていた。




