第2章 登録簿
二十三日の朝、七つの鐘が鳴るころには、エーリカはカウンターの端に陣取っていた。
前に置いているのは、組合の登録簿だ。二階の書庫の、奥の棚のいちばん下から、彼女が自分で下ろしてきた。牛革の表紙の、分厚い本だ。膝の悪い人間が抱えて階段を下りる重さではない。手伝おうかと言ったら、「大丈夫」と言われた。大丈夫そうではなかったが、本は無事に下りてきた。
カウンターの端は、ひと月ぶりに人がいる場所になった。
彼女は速く読んだ。頁をめくる音が、一定の間で続く。名前、職、出身、登録日、推挙者。一行ずつ指でなぞるのではなく、頁ごと目で掬って、次へ行く。書記の読み方だ。
最後のほうで、めくる手が止まった。
登録簿の後ろには、別の紙が綴じ足してある。前の頁は黒い絹糸で綴じてあるが、そこから先は、生成りの麻糸だ。エーリカは人差し指で、その糸に一度だけ触れた。
何も言わなかった。次の頁へ行った。
俺は杯を拭いていた。拭きながら、見ていた。見ていたことは、言わなかった。
雑役の名がいつから別綴じなのか、俺は知らない。この店に十年いて、登録簿の後ろのほうなど、開いたこともない。客の名前は顔で覚える。帳面で覚える必要がない。帳面で人を覚える人間が、世の中には別にいるのだ。
*
八つの鐘の少し前に、階段がゆっくり鳴った。
剣士のダリオだ。大男で、髭の端が縮れている。ひと月前の騒ぎで焦がした髭が、まだ元に戻らない。今朝は顔の色が、昨日の麦酒の色をしていた。
「水」と彼は言った。
水を出すと、一息で飲んで、ようやく目の焦点がカウンターの端に合った。
「……あんたが新しい組合長か」
「エーリカ・ランゲです」
「ランゲ」ダリオは頭を掻いた。「弓の名手だったって噂の、あのランゲさんか。俺がガキのころに聞いた話だ。百歩先の林檎の、へたを射るとか」
「へたは、射ていません」とエーリカは言った。「林檎の真ん中です。へたを射ると、林檎は落ちないから」
ダリオは少し考えて、「そりゃそうだ」と言った。
それから、表の扉を顎でさした。「あの扉、えらく金がかかったって聞いたぜ。前の組合長の金で直したんだろ。いくらしたんだか」
「金貨六枚と、銀貨十二枚」
エーリカは登録簿から目を上げずに言った。ダリオの口が少し開いた。
「……帳面で見たのか」
「ええ。参事会で、差し押さえの払い出しの帳面を書いていたのは、わたしの机の隣でしたから」
ダリオは扉を見て、エーリカを見て、また扉を見た。金貨六枚の扉だと思って見ると、扉のほうも少し偉そうに見える。
*
組合には、人間の冒険者のほかに、雑役の亜人がいる。
荷運び、夜番、掃除番。職の欄が空いた者たちだ。いまは四人いる。
掃除番のザザ。年寄りの蜥蜴人で、熱が見える。
灰狼族のヴェイ。首の下に白い毛の房がある。下の谷に女房と子がいて、家から通いで荷運びと夜番をしている。
鴉人のコル。若い。組合の伝令で、高い所が好きで、厩の梁の上で寝る。嘘がつけないので、伝言を一字も盛らない。一字も減らさない。
土竜人のドゥン。目が弱い代わりに、足の裏で土の震えを聞く。中庭の井戸の手入れをしている。
中庭から、ドゥンが釣瓶の滑車を直す音が聞こえていた。軋む。止まる。油を差す。軋みが少し低くなる。ドゥンは急がない。急ぐと、土の音が聞こえなくなるのだそうだ。
しばらくして、ドゥンが裏口から顔を出した。水桶を一つ、カウンターの脇に置きに来たのだ。弱い目を細めて、店の中をぼんやり眺め、それから床に向かって言った。
「新しい人の足は、左が重い」
エーリカがドゥンを見た。ドゥンは床を見ていた。土竜人は、人を顔でなく、重さで知る。床板の震えで、誰が上を歩いたか分かるのだという。
「右の膝が悪いの」とエーリカは言った。
「そうか」ドゥンはうなずいた。「なら、井戸の縁の石は、右から踏まないほうがいい。右の石は、少し揺れる」
それだけ言って、ドゥンは中庭へ戻っていった。エーリカは、少しのあいだ、裏口のほうを見ていた。
昼の鐘の前に、コルが裏口から入ってきた。黒い羽を背中でたたんでいる。新しい組合長の前で、軽く頭を下げた。
「伝令のコルです」
「エーリカ・ランゲです。よろしく」
コルはうなずいて、それで終わりにした。新しい組合長への挨拶も、世辞も、噂話もなかった。言うべきことだけを言うと、口を閉じる。それから、カウンターの向こうのダリオに向き直った。
「ダリオさんに伝言です。黒猫の尾の親父さんから」
「おう」
コルは、息を吸った。
「『ダリオの野郎に言っとけ。つけが銀貨四枚と銅貨十一枚になった。今月じゅうに払わねえなら、あの縮れた髭を引っこ抜いて、店の看板に吊るす』。以上です」
親父の声色まで、そっくりだった。
ダリオは天井を見た。エーリカは登録簿を見たまま、口の端だけ少し動かした。俺は黒板の「麦酒 銅貨五枚」の字を、なんとなく指で直した。
*
昼をまわって、ザザが階段下の暗がりから出てきた。
寒い朝のあいだ、ザザの体は遅い。日が高くなって、ようやく鱗に温みが戻る。箒を抱いて、床の掃き残しを探し始めた。
ザザの目には、温かいものが明るく見える。人も、火も、灯も。いまの店の中で、いちばん明るいのはたぶん暖炉で、その次が、カウンターの端で登録簿に屈みこんでいる組合長だろう。ザザは、そういう明るさで人を見分けるのではない。足で見分ける。
エーリカが顔を上げた。
「ザザ」と、彼女は呼んだ。「わたしを覚えている?」
ザザは箒を止めた。こちらを向いた。蜥蜴人の目は、何を見ているのか分かりにくい。顔を見ているようで、たぶん見ていない。
「足を覚えている」とザザは言った。乾いた落ち葉をこすり合わせるような声だった。「右の膝をかばう足だ」
ザザは、それから少し間を置いた。
「前は、かばっていなかった」
エーリカは何も言わなかった。少しして、「そう」とだけ言った。
前、というのがいつのことか、ザザは言わなかった。訊かれていないからだ。エーリカも訊かなかった。
膝を痛める前の足を、ザザは覚えている。この建物の床を、若い弓使いが両足で同じように踏んでいたころを。俺も、たぶん覚えている。顔より、足のほうが確かだというのは、ザザの言い分にも一理ある。
*
夕方五つ半の鐘のあと、コルがまた裏口から入ってきた。
手に、書状を一通持っていた。
「組合長に。参事会からです」
エーリカは受け取った。厚い紙で、参事会の封蝋が押してある。
コルは伝言のときと違って、何も言わなかった。書状の中身は、伝令には知らされない。知らされていないことは、鴉人は言えない。
エーリカは封を切らなかった。
カウンターの上に書状を置いて、しばらく見ていた。それから、爪の先で、封蝋の縁を一度だけなぞった。指に、蝋のかけらが少しついた。




