第1章 天井の足音
新しい組合長は、夜通し歩いていた。
霜月の二十二日。夜半の鐘が鳴ってから、ずいぶん経っていた。錆び釘亭の客はみんな帰って、俺は一人、カウンターの内側で杯を拭いていた。
真上の天井が鳴っていた。
この建物は、グラウヴァルの冒険者組合だ。一階が酒場の錆び釘亭で、二階が組合長の部屋と書庫、それに廊下の奥の住み込みの小部屋が二つ。一つは俺の寝床だ。もう一つは、ひと月前から空いている。俺は組合の者ではない。組合に雇われて、一階で酒を注いでいるだけの酒場番だ。名前はあるが、誰も呼ばない。みんな「マスター」と呼ぶ。
組合長の部屋は、ちょうどこの酒場の真上にある。床板が薄い。上で椅子を引けば、下で杯が震える。
七歩、歩いて止まる。引き返して、七歩。窓から扉までの距離なのだろう。歩く音には癖があった。右の足だけ、少し軽い。床に置くというより、床に預けるような音だ。
足音で人を数えるのは、昔の仕事の癖だ。壁の向こうに何人いて、誰が急いでいて、誰が迷っているか。迷っている人間は、同じ距離を何度も歩く。距離が伸びもせず縮みもしないのは、答えがその距離の中にないからだ。……と、昔、誰かに教わった。教えた男の顔は、もう覚えていない。
前の組合長は、こうではなかった。バルタザールの底の厚い靴は、一歩ごとに梁の埃を落とした。歩くというより、床に判を捺していた。その男はいま治安維持隊の牢にいて、部屋は空いた。空いた部屋に、昨日の昼、新しい組合長が来た。
小さな行李を一つ。それと、細長い革の袋を一つ、肩に担いでいた。袋の形で分かった。弦を外した長弓だ。
「夜逃げの支度かと思ったぜ」と、ゆうべダリオが言っていた。「組合長ってのは、もっとこう、荷車で来るもんだろ」
「前の方は、荷車で来て、荷車で出ていきましたね」と俺は言った。
「出ていくときは、隊の荷車だったけどな」
ダリオは笑って、ただ酒をもう一杯ねだり、俺は断った。
*
拭き終えた杯を棚に戻して、椅子を卓の上に上げていった。一つずつ。
表の扉は、直っていた。ひと月前の騒ぎで治安維持隊に叩き壊されて、しばらくは板を打ちつけてあった。いまは新しい樫の両開きで、新しい閂がついている。新しい木は、まだ酒場の匂いを吸っていない。開け閉めするたびに、ここだけ森の匂いがする。
梁の一か所には、黒い焦げが残っている。あの夜、誰かが投げた火の礫の跡だ。扉は直っても、梁までは手が回らなかったらしい。
カウンターの端は、空いている。
ひと月前まで、そこに給仕の娘がいた。白い耳の娘で、暇な刻には頬杖をついて、客の噂話を聞くともなく聞いていた。いまは誰もいない。椅子を上げるのも、杯を拭くのも、裏口でスープを出すのも、俺の仕事になった。
べつに困ってはいない。手が二本あれば、店は回る。
天井が、また鳴った。七歩。止まる。七歩。
俺は最後の椅子を上げて、灯を一つだけ残して消した。
階段を上がって、廊下の奥の自分の部屋へ向かった。組合長の部屋の前を通るとき、扉の向こうで足音が止まった。俺が通り過ぎると、また七歩が始まった。
向こうも、足音で人を数える人間らしい。
壁一枚向こうの七歩は、俺が寝床で目を閉じてからも、しばらく続いていた。
*
朝六つの鐘で、城門が開く。
鐘の六打目が消えるころ、俺は表の扉を開けた。冷たい空気が入ってきた。石畳が白い。今年の初霜だ。広場のほうから、パン屋の荷車の車輪が、霜を噛んで鳴る音が近づいてきて、遠ざかった。荷車の男は毎朝同じ節で鼻歌を歌う。今朝は寒さで、半分しか歌わなかった。
階段の下の暗がりから、ザザが出てきた。
組合の掃除番で、年寄りの蜥蜴人だ。乾いた鱗の手で箒を抱いて、黙って床を掃き始める。ザザは訊かれたことしか言わない。訊かれなければ、一日じゅう何も言わないこともある。
湯を沸かしていると、階段が鳴った。
左の足が先に下りてくる。右が、あとから軽く追いつく。一段ずつ。手すりには頼らない。
新しい組合長、エーリカ・ランゲは、階段の最後の段で止まった。
背は中くらいで、骨の細い女だった。灰色がかった栗色の髪を、首の後ろで一本に編んでいる。四十代の半ばだろう。外套の前をきちんと留めて、寝不足の顔をきちんと隠していた。隠しきれていないのは、目の下だけだった。
彼女は、店に一歩入って、見た。
表の扉。裏口。階段。窓が二つ。カウンターの内側の俺。床を掃くザザ。それから、もう一度表の扉。
人の数と、出口の数を数える目だった。俺も部屋に入ると同じことをする。斥候をやめて十年になるが、目のほうはやめてくれない。
その目には、覚えがあった。
参事会の書記だったころ、彼女は何度かこの店に来たことがある。いつも一人で、隅の席に座って、麦酒を一杯だけ飲んで帰る客だった。入ってくると、決まって人と出口を数えた。俺は、そういう客の顔は忘れない。
もっと昔の顔も、少しだけ覚えている。俺が駆け出しの斥候だったころ、組合の中庭の射場を、塀の上から覗いている町の娘たちがいた。そのうちの一人が、何年かして、弓を持って組合に登録しに来た。あれが、たぶん、この人だ。
たぶん、と言っておく。三十年も前の塀の上の顔を、はっきり覚えていると言えば嘘になる。
*
「おはようございます、組合長」と俺は言った。
「おはようございます」エーリカは少し硬い声で言った。「マスター、でいいのかしら」
「みなさん、そう呼びます」
彼女はうなずいて、カウンターの前まで来た。来る途中で、床を掃いているザザの手元を見た。箒の先を見ていた。
「左利きなのね」と、エーリカはザザに言った。
声は小さかった。責めるのでも、感心するのでもない。帳面の数字を読み上げるような声だった。
ザザの箒が止まった。
箒の穂先は、右側だけが斜めに擦り減っている。左の手で掃く者の擦り減り方だ。俺は何年もこの箒を見ていて、一度もそう思ったことがなかった。
「そうだ」とザザは言った。
それで終わりだった。ザザは訊かれたことに答え、また掃き始めた。エーリカもそれ以上は何も言わなかった。
俺は湯を注いだ。薄荷の葉を二枚落とした茶を、カウンターに置いた。この店では、朝に酒を頼む客より、茶を頼む客のほうが長生きする。
「どうぞ。店のおごりです。着任のお祝いということで」
「ありがとう」
エーリカは茶碗を両手で包んで、一口飲んだ。熱さに少しだけ目を細めた。
それから、目を上げて、梁の焦げを見た。黒い跡の、端から端まで。何か言うかと思ったが、何も言わなかった。見たものを、そのまま胸のどこかに仕舞ったように見えた。
「初霜ですね」と、代わりに彼女は言った。
「ええ。今年は少し早い」
「下の谷は、もっと冷えるでしょう」
「でしょうね。あそこは窪地ですから、冷たい空気が溜まります」
エーリカはうなずいた。上町でも中央広場でもなく、最初に下の谷の寒さを気にする組合長を、俺は初めて見た。
上の部屋で一晩じゅう何を考えていたのかは、訊かなかった。酒場番は、客の夜について訊かない。訊かれれば答えるし、訊かれなければ黙っている。その点では、ザザと大差ない。
エーリカは酒場のことを、何も訊かなかった。客の入りも、酒の仕入れも、前の組合長がどんな男だったかも。
茶碗を置いて、彼女は言った。
「登録簿は、どこに」




