第10章 誓わない者
師走の朔日は、薄曇りだった。
空が低い。風はない。鼻の奥が、少しだけ冷たく湿る。雪の匂いだ。今日でなければ、明日だろう。
十の鐘の少し前に、隊長が来た。
付き添いの役目より先に来るのは、隊長の癖らしい。カウンターの前に座って、水を一杯頼んだ。外套の喉元の、上の留め金は外れていた。
「雪になりますか」と俺は訊いた。
「明日だな」隊長は窓の外を見た。「門番の爺さんの膝がそう言ってる。あの膝は隊の誰より当たる」
「では、明日は樽の入りが遅れますね」
「遅れるな」
それだけ話して、二人とも黙った。黙っていても気まずくない相手というのは、酒場番にとって、上客のうちに入る。
*
十の鐘が鳴った。
鐘の十打目が消えないうちに、表の扉が開いた。
入ってきたのは、三十すぎの痩せた男だった。帳面を胸に抱いている。両腕で、大事な赤ん坊でも抱くように。袖口に、インクの染みが三つあった。
参事会書記局の、ヨーナスだ。
隊長は立ち上がらなかった。座ったまま、片手を上げた。留め金は外れたままだった。
階段が鳴った。エーリカが下りてきた。左の足から、一段ずつ。最後の段で止まり、店の中を見た。人の数と、出口の数。ヨーナス。隊長。カウンターの内側の俺。隅の卓で、珍しく素面のダリオ。階段下の暗がりで、箒を抱いたザザ。
「おはよう、ヨーナス」とエーリカは言った。
「おはようございます、ランゲさん」ヨーナスは頭を下げた。下げてから、言い直した。「……組合長」
ヨーナスは帳面を抱え直した。その拍子に、帳面のあいだから紙が一枚、ひらりと床に落ちた。
ダリオが拾った。読んだ。
「『朔日 昼 参事会館 豆の煮込み、黒パン、林檎』……昼飯の献立か」
ヨーナスの耳が赤くなった。紙をひったくるように受け取って、帳面の奥に押し込んだ。隊長が、片側だけで笑った。
*
ヨーナスは、カウンターの前に立った。咳払いを一つした。
「返書は、拝見しました」
声が少し上ずっていた。
「屁理屈は困ります、ランゲさん。参事会は、亜人を登録簿から外せと申し上げた。外していただかなければ、わたしが帰れません。いま、ここで、亜人の名を外していただく」
エーリカは答えなかった。
代わりに、カウンターの端に置いてあった登録簿を開いた。牛革の表紙。前の頁は黒い絹糸で綴じてある。そこを何枚もめくって、最後のほうで手を止めた。
黒い絹糸が終わり、生成りの麻糸が始まる頁。
「ここから先が、雑役です」とエーリカは言った。「別の紙で、あとから綴じ足してある」
それから、規約の原本を、その横に開いた。焼き印の表紙。二つの頁に、細い紙の栞が挟んであった。
「第三条。組合員とは、職を登録簿に記し、鉄の誓約を立てた者をいう。第九条。雑役は、その名を登録簿の末に綴じ足す。職の欄は空けおき、誓約を立てさせない」
エーリカは顔を上げた。
「登録簿に、亜人の組合員はおりません」
一行の返書と、同じ言葉だった。
*
店の中が、少し静かになった。
ヨーナスは、規約と登録簿を見比べた。見比べて、また見比べた。書記の目だった。書記の目には、条文の字はちゃんと読める。読めるから、困った顔になる。
「……亜人は、組合員ではないと」
「規約の上では」
「そんな読み方は」
「規約の、書いてあるとおりの読み方です」
ヨーナスは唇を噛んだ。それから、くるりと向きを変えた。
階段の下の暗がりに、ザザがいた。
「お前」ヨーナスは言った。声が尖っていた。「お前は組合員だろう。トカゲは嘘をつけないはずだ。答えろ」
ザザは箒を止めた。
「違う」とザザは言った。
乾いた落ち葉をこすり合わせるような声だった。いつもと同じ声だった。
ヨーナスの顔が、こわばった。亜人は嘘をつけない。それは、この街の誰もが知っている。
「誰が、そう言った」
「右の膝をかばう足が」
「……は?」
ザザは、少し考えた。
「組合長が」
「いつ」
「四日前の夜。厩で」
*
四日前の夜。
風の強い夜だった。フーゴが閂に手をかけ、エーリカの声が届かず、ダリオが襟首をつまんだ夜。夜半すぎに、壁越しの足音がやんで、組合長の部屋の扉が開いた夜。
裏口の閂を外す音を、俺は寝床で聞いていた。確かめに出なかった。
あの夜、エーリカは厩へ行ったのだ。厩の二階の、ザザたちのところへ。そこで、規約のことを話したのだろう。四日後に、誰かがこう訊くことを分かっていたのかもしれない。嘘をつけない者たちに、嘘でない答えを、先に渡しておいたのかもしれない。
かもしれない、としか言えない。俺は確かめに出なかったのだから。
俺は杯を拭いていた手を、止めなかった。止めると、何かあると思われる。
*
ヨーナスが、一歩、ザザのほうへ出た。
「そんな屁理屈を、亜人にまで吹き込んで――」
もう一歩出かけたとき、カウンターで、小さな金具の音がした。
隊長が、外套の喉元の留め金を、留め直していた。
カチリ、と鳴った。それだけで、店の空気の重さが変わった。隊長は立ち上がった。背が高い。鉄を打った靴が、床を一度だけ鳴らした。
「書記殿」
声が違っていた。さっき門番の爺さんの膝の話をしていた女の声ではなかった。治安維持隊の隊長の声だった。
「規約の読み方は、参事会でお決めになればいい。参事の方々の名前を並べて、議決なさればいい。ここで亜人に訊いても、答えは変わりませんよ」
隊長は、ザザを顎で示した。
「嘘をつけないんですから」
ヨーナスは、口を開けて、閉じた。帳面を抱き直した。
「わたしは……上の方に、言われて来ただけで」
「分かっています」隊長は、少しだけ声を和らげた。「ご苦労でした。広場まで送りましょう。参事会館の昼飯に、遅れるといけない」
ヨーナスの耳が、また赤くなった。
隊長はヨーナスの肩に手を置いて、扉のほうへ促した。扉の前で、隊長は一度だけ店の中を振り返った。何も言わなかった。それから二人は出ていった。表の扉が開いて、雪の匂いのする空気が入ってきて、閉まった。
*
店の中には、エーリカと、ダリオと、ザザと、俺が残った。
ザザは、何事もなかったように掃除に戻った。訊かれたことには答えた。それ以上のことは、ザザの仕事ではない。
エーリカは、登録簿と規約を閉じた。手つきは静かだった。
ダリオが、隅の卓から何か言いたそうにこっちを見ていた。口を開きかけて、閉じた。もう一度開きかけて、頭を掻いた。
誰も、エーリカに「あなたが仕組んだのか」とは訊かなかった。
ダリオでさえ、訊かなかった。




