第11章 紙の上
朔日の夕方、六つの鐘が鳴って、城門が閉まった。
客のいない刻だった。いつもなら、この刻の錆び釘亭には、暖炉の音と、ザザの箒の音しかない。
今日は、裏口が鳴った。
閂の向こうで、誰かが戸を二度叩いた。拳ではなく、指の関節で。遠慮のある叩き方だった。
開けると、ヴェイが立っていた。首の下に白い毛の房がある灰狼。夜番の日ではない。下の谷から、わざわざ上がってきたのだ。
コルが、もう話を運んだのだろう。鴉人は伝言を一字も盛らない。だから、昼の検分で何があったかは、一字も減らずに谷まで届いている。
ヴェイは店に入ってきた。椅子には座らなかった。カウンターの前に立ったまま、カウンターの端のエーリカを見た。
*
「四日前の夜」とヴェイは言った。「組合長は、厩で、そう書くと言った」
あの夜、ヴェイも厩にいたのだ。谷の家にいるはずだと思っていたのは、俺の見立てにすぎなかった。
「今日、書いたと聞いた。参事会の書記に、そう言ったと聞いた」
「ええ」とエーリカは言った。
ヴェイは、しばらく黙っていた。灰狼は、言葉を探すとき、鼻が少し動く。言葉にも匂いがあるのかもしれない。鼻はカウンターの端のほうへ少し向いて、止まった。アガタの膝の薬の匂いが、まだ組合長の外套に残っていたのだろう。
「組合員でないなら」とヴェイは言った。「僕たちは、何だ」
エーリカは、すぐには答えなかった。
答えを探している顔ではなかった。答えはもう持っていて、それを口に出すのがつらい顔だった。嘘をつけば楽になる。組合長は誓約の主で、嘘をつける。だが、この人は嘘が下手だ。下手な嘘は、灰狼の鼻には、たぶんすぐ分かる。
「紙の上では」とエーリカは言った。「何でもありません」
ヴェイの耳が、少し伏せた。
「紙の上でしか、守れませんでした。登録簿に名前は残ります。厩の二階も、裏口のスープも、仕事もそのままです。でも、組合員だとは、もう書けない。わたしが、書かないと書いたから」
ヴェイは、嘘をつけない。だから、答えの代わりに、もう一つ問いを置いた。
「なら、紙の外では」
エーリカは答えなかった。
答えなかったのではなく、答えを持っていなかったのだと思う。紙の外のことは、組合長の帳面には書いていない。
ヴェイは、それ以上は待たなかった。裏口へ戻りかけて、一度だけ振り返った。
「スープは」
「店の決まりです」と俺は言った。「組合の規約とは、関係ありません」
ヴェイは小さくうなずいた。裏口の戸が閉まった。霜の上を遠ざかる足音は、ここまでは聞こえなかった。
紙の上の名前と、呼ばれる名前は、別のものだ。
俺にも名前はある。組合を抜けたとき、登録簿の俺の行には線が一本引かれたはずだ。それでも、この店では誰も困らない。みんな「マスター」と呼ぶ。名前を呼ばれなくても、杯は注げるし、つけは取り立てられる。
だが、それは俺が自分で線を引かせた名前だからだ。他人に線を引かれた名前は、たぶん、同じではない。
*
階段の下で、ザザが箒を抱いていた。
俺は、ザザに一つだけ訊いた。訊かなければ、ザザは何も言わない。訊けば、訊いたことにだけ答える。
「ザザ。組合長は、四日前の夜、厩で、ほかに何と言いましたか」
ザザは、少し考えた。蜥蜴人の瞼が、下から上へ、ゆっくり閉じて、開いた。
「規約の二つの条を言った。三と、九だ」ザザは言った。「誓いを立てていない者は、組合員ではない、と言った。参事会にそう書く、と言った。あなたたちを登録簿に残すために、と言った」
ザザは、そこで一度息を継いだ。
「それから、すまない、と言った」
カウンターの端で、エーリカが目を伏せた。
「それから、私たちの寝床の場所を言い当てた。私は奥の藁。ドゥンは窓の下。灰色の首の白いのは、戸の脇。霜と藁の足跡で、と言った。梁の上のコルの場所もだ」
ザザは、それで口を閉じた。
「それで全部ですか」
「言ったことは、全部だ」
言ったことは全部。言わなかったことは、数に入らない。溜め息や、手の震えや、言いかけてやめた言葉は、ザザの勘定には入らない。俺の訊き方が悪かった。「ほかに何をしましたか」と訊けばよかったのだ。もう一度訊こうとして、やめた。
エーリカが、俺を見ていた。訊かないでほしい、という目ではなかった。訊かれたら答えるしかない、という目だった。だから、訊かなかった。
石取りの盤の前で、ザザが黙って白い石を一つ置いた。俺の黒の、最後の二目のうちの一つが、それで息を止めた。
*
七つの鐘の少し前に、隊長が来た。
検分の付き添いを終えて、参事会館に寄ってきたのだという。カウンターに肘をついて、水を一杯頼んだ。勤務中の隊長は、酒を頼まない。頼まないが、水を飲む顔は、酒を飲む顔とあまり変わらない。
「ヨーナスは、参事会館の昼飯に間に合った」と隊長は言った。「豆の煮込みは、半分残してたがな。あいつは今日、上の参事に絞られる。小さい役人は、いつも上と下に挟まれる。私も似たようなもんだ」
それから、本題に入った。
「参事会は、内示を引っ込めた」
エーリカが顔を上げた。
「代わりに、助成の打ち切りそのものを、春の議にかけるそうだ」隊長は水を飲んだ。「今度は議決だ。賛成した参事の名前が、ずらっと並ぶ。参事会は、名前を出さずに済ませたかったことを、名前を出してやるしかなくなった」
「それは」
「お前のおかげだよ」隊長は片側だけで笑った。「褒めてない」
エーリカは何か言いかけて、やめた。それから、規約と登録簿を胸に抱いて、立ち上がった。
「先に休みます」
左の足から、一段ずつ、階段を上がっていった。
*
隊長と俺だけが残った。
隊長は、空になった杯を指で回していた。しばらく黙っていた。
「エーリカは、見たものを言わない」と隊長は言った。俺に向けたのか、杯に向けたのか分からない声だった。「アーデルは、言わせないで使う。私は」
そこで、止まった。
続きは、なかった。隊長は杯を置いた。私は、のあとに何が来るのか、俺には分からなかった。隊長自身にも、分かっていなかったのかもしれない。
「夫人の手紙の、あの一行な」隊長は言った。「『見たものを口に出さない人』ってやつ。あれは――」
言いかけて、また止まった。
隊長は首を振って、立ち上がった。
「まあいい。明日になれば分かる」




