第12章 祝いの樽
師走の二日、昼すぎに、雪がちらつき始めた。
門番の爺さんの膝は、また当たった。
降るというほどではない。灰色の空から、白いものが、思い出したように一つ二つ落ちてくる。石畳に落ちて、すぐ消える。表の窓の桟に落ちたものだけが、しばらく白いまま残って、それから溶けた。
広場のほうでは、子どもたちが口を開けて空を見上げていた。初雪を舌で受けると、その冬は風邪をひかない。下町の言い伝えだ。言い伝えを信じて舌を出した子どもの半分は、毎年ちゃんと風邪をひく。厩の屋根の棟では、コルが羽をふくらませて、落ちてくる雪をひとつずつ目で追っていた。
昼の鐘のあと、表の通りで、荷車の車輪が止まる音がした。
*
扉を開けると、ヘルマンが立っていた。
黒い上着の肩に、雪が少し載っていた。払おうとしないのは、払う手がハンカチでふさがっているからだ。後ろの荷車に、樽が一つ載っていた。中樽だ。南の葡萄酒の焼き印がある。
「ランゲ様に」とヘルマンは言った。よく磨いた声だった。雪の中でも、声はちゃんと磨かれていた。「奥様より、着任のお祝いでございます」
エーリカが、カウンターの端から立ち上がった。
「いつ、これを」
「十日前に」ヘルマンは言った。「今日、師走の二日に届けるようにと、仰せつかりました」
十日前。霜月の二十二日。エーリカが着任した次の日だ。参事会の書状が届く前の日でもある。
エーリカは、何も言わなかった。外套の前で、両手が一度だけ組まれて、ほどかれた。弦の皮のある指が、少しのあいだ、行き場を探していた。
*
樽は、扉に引っかかった。
表の扉を両方開けても、中樽は、ぎりぎりだった。ダリオが担いで、斜めにして、まっすぐにして、また斜めにした。金貨六枚と銀貨十二枚の新しい樫の扉が、樽の箍にこすられて、ぎい、と鳴いた。
「組合長」ダリオが樽の下から言った。顔が赤かった。「長の命で、この樽を縮めてくれ」
「使いません」とエーリカは言った。
真顔だった。
それから、ほんの少しだけ、口の端が動いた。
ダリオは「だよな」と言って、樽を斜めにした。四度目で、樽は扉を抜けた。新しい扉の内側に、箍の擦り傷が一本ついた。新しい木は、これで少し、この店の扉らしくなった。
ヘルマンは擦り傷を見て、ハンカチの下で小さく咳払いをした。
「奥様には、扉のことは申し上げないでおきます」
樽はカウンターの脇に下ろされた。ヘルマンは、樽の縄に結んだ札を、両手でエーリカに示した。
厚い紙の札だった。字は細く、右に上がっていく。行の終わりの払いが長い。
『着任祝いに。見たものを口に出さない、三人へ。 A』
*
ちょうどそのとき、表の扉から隊長が入ってきた。
巡回の途中らしかった。外套の肩に雪が載っている。樽と、ヘルマンと、エーリカを順に見て、それから札に目をやった。
読んだ。
隊長は、外套の喉元に手をやった。上の留め金を、一つ外した。
それから、笑った。
片側だけで笑った。頬の傷が引きつれて、もう片側は動かなかった。声は出さなかった。肩が二度、小さく揺れた。
「三人、ね」と隊長は言った。
エーリカが隊長を見た。
「隊長。昨日、言いかけたこと」
「明日になれば分かる、と言ったろ」隊長は札を指で弾いた。「今日だ。分かったろ」
エーリカは答えなかった。札を見ていた。隊長も、それ以上は言わなかった。
三人が誰と誰と誰なのか、俺は数えなかった。数えれば数えられたのかもしれない。数えなかった。札に書いてあるのは「三人」で、名前ではない。名前が書いていないものを、酒場番が勝手に埋めることはない。
ヘルマンは一礼して、雪の中へ帰っていった。空の荷車の車輪の音が、通りを遠ざかった。
隊長は留め金を外したまま、樽の焼き印を指で叩いた。
「いい葡萄酒だ。あいつは、こういうところでけちらない」
「隊長も、一杯いかがです」と俺は言った。
「勤務中だ」隊長は扉のほうへ歩き出した。「春になったら、もらいに来る。春の議のあとでな」
隊長が出ていくと、ダリオが樽の栓に手をかけた。
「じゃあ、とりあえず一杯だけ、味見を」
「栓は、抜きません」とエーリカは言った。「春まで」
迷わない声だった。射る前の一呼吸が、なかった。ダリオは栓から手を離して、樽を名残惜しそうに撫でた。この十日で、この人が何かを一息で決めたのを、俺は初めて見た。決めたのが樽の栓だというのは、まあ、そういうものだ。
*
夕方、裏口の閂の向こうで、小さな咳が二つした。
開けると、ハクとチィが立っていた。今日は大人の古い上着の上に、雪がうっすら載っていた。チィが、頭の雪を兄に払ってもらっていた。
今夜も、豆と赤蕪のスープだった。
赤蕪は、小さく切った。
チィは椀を両手で抱えて、湯気に顔を突っ込んで、一口飲んだ。それから、まっすぐ俺を見て言った。
「今日のは、前よりおいしい」
亜人の子は、嘘がつけない。
ハクが、妹の言葉に重ねて「うん」と言った。兄は、妹より先に言うと妹が怒るので、いつもあとから言う。
階段の途中で、エーリカがそれを見ていた。今夜は下りてこなかった。見ていただけだった。昼のうちに、中庭の霜の上の小さな足跡を、もう一度見に行ったのかもしれない。今日は霜の代わりに、薄い雪の上に足跡が残っていたはずだ。
組合の規約が何と書いてあっても、裏口のスープは店の決まりだ。決まりは、樽一つぶんの葡萄酒より安上がりで、樽一つぶんより長持ちする。
*
夜半の鐘で、店を閉めた。
樽の縄には、札が結んだままになっていた。誰も外さなかった。外す理由も、外さない理由も、誰も言わなかった。
最後の客を送り出して、六つの卓に、椅子を一つずつ上げた。カウンターの脇の樽は、栓を抜いていない。春までは抜かない。組合長が決めた。
灯を一つだけ残して、カウンターの内側に戻った。
杯を拭いた。拭きながら、真上の天井を聞いていた。
ひと月とすこし前まで、この刻には、カウンターの端に頬杖をついた娘がいた。十日あまり前からは、天井で七歩が鳴っていた。今夜は、どちらもない。
杯を一つ拭き終えた。鳴らなかった。
二つ目を拭き終えた。鳴らなかった。
窓の外で、雪が少しずつ本降りになっていく気配がした。音はしない。雪は音を立てない。
最後の杯を棚に戻して、灯を消した。
天井は、鳴らないままだった。




