第九章 一度、君をつれて
第九章 一度、君を連れて
随筆集は、文庫棚の下から二段目にあった。
佐伯が抜き取った一冊を、榊条は気難しい顔で見た。
「それも読まなければならんのか」
「作者の本なのに、読んでないの?」
「私が出ていない」
「そういう基準なんだ」
藤井は本を受け取り、目次を開いた。
旅の話。食べ物の話。初めて買った万年筆の話。
その中に、家についての一篇があった。
該当ページを開く。
冒頭に、小さな白黒写真が載っていた。
「……あ」
藤井は、手元の推理小説も開いた。
中庭に面した窓。
張り出した翼棟。
庭の向こうから撮られた古い家の姿が、見取り図の形と重なった。
「この家じゃない?」
佐伯が隣からのぞき込んだ。
榊条も近づき、杖を持たないほうの手をページへ添えた。
「東の窓が、三つ。回廊の端に、出入り口」
呟いて、写真を見つめる。
「同じだ」
写真の下には、著者が幼少期を過ごした家、とあった。
*
藤井は本文を読んだ。
古い洋館は、冬になると廊下まで冷えた。
祖母が火鉢を置いていても、客間の隅は寒いままだった。
ただ、庭に面した硝子の回廊だけは、日が差すと暖かかった。
そこで本を読んだ。
眠くなると、母が呼びに来た。
藤井は顔を上げた。
榊条は、もう写真を見ていなかった。
文章へ目を落としていた。
「客間、寒かったって」
「……読めば分かる」
声が、少し小さかった。
次のページには、階段のことが書いてあった。
木の馬を落とした。
三段目の角が欠けた。
叱られると思って黙っていたが、翌日、祖父が何も言わずに角を削ってくれた。
その傷を、大人になってからも覚えていた。
藤井は推理小説を開き直した。
帰郷した男が、階段に触れる場面。
「ここも、そのままだ」
榊条は返事をしなかった。
随筆の終わり近くには、家を取り壊すことになった経緯が記されていた。
最後に訪ねたとき、回廊の窓が一枚、ひび割れていたこと。
直したところで、もう誰も住まないこと。
藤井は、読み終えたページへ手を置いた。
「もう、ないんだね」
「ええ」
佐伯が答えた。
榊条は、写真へ戻った。
「作中では、硝子は割れていなかった」
細い指が、回廊の屋根をたどった。
「よく磨かれていた。日が差すと、床に窓枠の影が落ちる」
藤井は頷いた。
それも、小説の中に書かれていた。
*
「この随筆集、出たのは何年も前ですね」
佐伯が奥付を見て言った。
「『硝子の回廊』のお話が、どこかにあるとよいのですが」
「巻末に、何か載ってなかったかな」
藤井は推理小説の最後をめくった。
解決の場面まで読み終えたところで、榊条と話し始めてしまっていた。
物語のあとには、何枚かのページが残っていた。
編集部より。
その見出しの下を読んで、藤井の指が止まった。
佐伯も、同じところを見た。
「何だね」
榊条が尋ねた。
藤井は顔を上げた。
どう言えばいいのか、すぐには分からなかった。
「……この本」
「だから、何だ」
「作者が、亡くなってから出たんだって」
榊条の指が、写真の上で止まった。
秒針の音がした。
藤井は、本を榊条のほうへ向けた。
指で隠さないよう、持つ場所を変える。
榊条は文字を見た。
長くシリーズを執筆してきた著者が、この作品の刊行を前に亡くなったこと。
本書が最後の長編となったこと。
完成原稿が残されていたこと。
その先を、誰も声に出さなかった。
*
巻末には、編集部の文章とともに、執筆中に行われたインタビューの一部が収録されていた。
藤井は見出しを読んだ。
「舞台のこと、話してる」
榊条は黙ったまま、ページがめくられるのを見ていた。
聞き手が、作品の舞台に選んだ洋館について尋ねている。
作者は、随筆に書いた家が元になっていると答えていた。
窓の配置も、階段の傷も、できるだけ覚えているとおりに書いた。
とくに回廊には、よい思い出がある。
そのあとの言葉を、藤井はゆっくり読んだ。
「『一度、あの家に榊条を連れていきたかったんです』」
榊条が、ほんの少し顔を上げた。
「『あいつなら、寒いだの廊下が長いだの、きっと文句を言うでしょうけど』」
佐伯が榊条を見た。
探偵は何も言わなかった。
藤井は続きを読む。
「『冬でもね、回廊は暖かいんです。あそこに座らせて、庭を見せてやりたかった』」
そこで、藤井は声を止めた。
榊条の視線が、推理小説のほうへ動いた。
事件が起きる前、訪ねてきた探偵が、回廊で茶を飲む場面があった。
藤井も覚えていた。
寒い客間に通された榊条が不平を言い、家の者が、こちらなら暖かいからと案内する。
探偵は椅子に腰を下ろし、庭を見る。
何も起きない、短い場面だった。
*
編集部の文章には、トリックのことも記されていた。
窓の位置と、糸の経路に問題があると指摘したこと。
著者もそれを認め、修正を検討していたこと。
その際に交わした言葉が、短く残されていた。
建物の形だけは、変えたくない。
別の方法を考えると言っていたが、その修正稿は残されていなかった。
編集部では、結末まで書き上げられていた原稿を、建物の配置も含めて残すことを選んだ。
藤井は、最後まで読んだ。
「知ってたんだ」
佐伯が小さく頷いた。
「直そうとは、されていたんですね」
榊条は、見取り図を開いた。
書斎の窓から、客間の窓へ。
指が途中で止まる。
東の翼棟が、そこにあった。
「壁は、どかしたくなかったのか」
藤井は答えなかった。
榊条は、もう一度、二つの窓を見た。
「なら、別の方法を考えるべきだった」
「うん」
「私に相談すれば、よかったものを」
いつものように、尊大な言い方だった。
藤井は、頷いた。
「文句、いっぱい言ったと思うけど」
「当然だ。私は、あいつの思いつきを褒めるためにいるのではない」
榊条は見取り図を閉じた。
今度は、本文をゆっくりめくった。
回廊の場面で、手を止める。
庭の白い花。
椅子の籐の、少しほつれた肘掛け。
窓際へ運ばれてきた、温かい茶。
榊条はそこを読んだ。
さっきまでは、推理に必要のない描写だった。
*
「……あいつはもう、私を書いてはくれないんだな」
榊条は本に目を落としたまま、言った。
藤井は、膝の上で両手を重ねた。
佐伯も、何も言わなかった。
「ふんっ。どうせあいつのことだ。あの世でまた、私に穴だらけの推理をさせるつもりだろう」
探偵は鼻をすすり、顔をそむけた。
佐伯が、随筆集の開いていたページを押さえ直した。
藤井も、そちらへ目を戻した。
小さな白黒写真の中に、あの家があった。




