第十章 働く側の意見
第十章 働く側の意見
「続編って、出るんですかね」
その夜の客は、挨拶のあと、いきなりそう尋ねた。
黒いジャージを着た、若い男だった。
片手には一冊の本。
もう片方の手で、少し浮いた寝癖を押さえている。
藤井は表紙を見て、顔を上げた。
「悠斗?」
「はい」
「宵待保育園の?」
「そうです」
「読んだ。俺、それ好き」
悠斗は少し驚いた顔をした。
それから、本を持ち直した。
「ありがとうございます」
「続編、出てほしいなあ」
「……そうですか」
返事が、思ったより暗かった。
佐伯が隣へ来た。
「ご希望ではないんですか」
「いや。園が続くのは、いいんですけど」
悠斗は表紙へ目を落とした。
「また何か起きるのかなって」
*
「作者って、どこにいるんですかね」
「もちむぎ?」
「はい。一度、話をしたいんですけど」
「何て?」
「あなたが一晩、やってみてくださいって」
藤井は笑った。
悠斗は笑っていなかった。
「六年、働いてなかった人間ですよ。俺。復帰先があそこって、段階を飛ばしすぎじゃないですか」
「でも、向いてたじゃん」
「結果を知ってる側の言い方ですよね、それ」
「……そうだね」
佐伯が、表紙から顔を上げた。
「こちら、私はまだ読んでいなくて。夜間の保育園で働かれるお話ですよね」
「そう。最初、働きに出るまでがまた面白いんだよ」
「俺の社会復帰、面白かったですか」
藤井は本へ目を落とした。
「応援はしてた」
「応援だけじゃ手は増えないんですよ」
悠斗は自分の両手を見せた。
「二本ですから。俺の腕」
「七人もいますものね」
佐伯は真面目に頷いた。
「新人の方に、初めから負担が偏るのは困りますね」
「そうなんです。俺が慌ててるところ、作者は絶対楽しく書いてるでしょう」
「読んでるほうも、結構楽しかった」
「でしょうね」
藤井は口元を押さえた。
「それから、借用書」
「三千万の?」
「金額、すぐ出てきますね」
「あれ、忘れられないから」
佐伯の顔が変わった。
「三千万円?」
「はい」
「保育園のお仕事で、ですか?」
「そこは読んで。佐伯さん、最初から読んだほうがいい」
「読む側は、それで済むんですよね」
悠斗が言った。
「俺は、読み終わっても金額が減るわけじゃないんですけど」
佐伯は表紙を見直した。
さっきより、慎重な持ち方になっていた。
「続編で、ゼロをひとつ減らしてくれませんかね。誤植でしたって」
「借用書の誤植は、大問題でしょ」
「俺の人生には、かなり助かる訂正です」
今度は、佐伯も少し笑った。
悠斗はため息をついて、寝癖を押さえた。
「乗り越えたからよかった、で済ませないでほしいんですよ。働く側の意見も、聞いてください」
*
「続編で、どういう話ならいいの?」
藤井が聞くと、悠斗はすぐ答えた。
「全員来て、全員無事に帰る話です」
「事件は?」
「いりません」
早かった。
「何か、目標とか」
「朝です」
「朝」
「無事に朝になれば、いいんです」
佐伯が口元を緩めた。
「一日の終わりが、きちんと来ることですね」
「はい。親御さんに、今日も無事でしたって渡せれば」
悠斗はそこで、ふと本を見た。
「……まあ、何もない日でも、結構いろいろあるんですけど」
「例えば?」
「きゅうが、キュウリをもらう仕組みを勝手に作ろうとするとか」
藤井は笑った。
「やりそう」
「十秒できたから一本、二十秒なら二本って。こっちは、息を整えろって言ってるのに」
「……何を十秒、ですか?」
佐伯が、少し遅れて尋ねた。
「池で、顔を水につけるんです」
悠斗は、自分の顔の前へ手をやった。
「縁をつかんで。俺も、すぐ届くところにいますけど」
「できるようになったんだ」
藤井が身を乗り出した。
「はい」
その返事には、さっきの暗さがなかった。
「前は、近づくのも怖がってたんで。今は自分から入るんです」
悠斗は少し間を置いて、付け足した。
「調子に乗るから、休憩はさせますけど」
藤井は佐伯を見た。
佐伯も、静かに笑っていた。
「いい話じゃん」
「いや、大事件ではないですよ」
「そういう話も、読みたいよ」
悠斗は口を閉じた。
少し考え、それから、寝癖を押さえた。
「……それで一冊になるなら、ありがたいんですけどね」
*
話は、少しずつ長くなった。
こはくが悠斗に化けると、耳と尻尾を同時にしまうのが難しいこと。
めめは見えにくいものを、近づいて確かめるようになったこと。
大河の小さな声が、きゅうに届いたこと。
「大声で言えた、じゃないんだ?」
「はい。声は小さいまま。でも、ちゃんと届いたんです」
悠斗は、当然のことのように言った。
「聞いてほしい相手に届けば、いいので」
藤井は頷いた。
悠斗の持っている本には、もう書かれていない話だった。
ページをめくらなくても、次々に出てくる。
「……先生の姿になる、というのは?」
佐伯が尋ねた。
「化けるんです。俺に」
「お芝居で?」
「いや、本当に。顔も、声も」
佐伯が藤井を見た。
藤井は嬉しそうに頷いた。
「こはくって、悠斗のこと、よく見てるんだね」
「寝癖まで真似しなくていいと思うんですけど」
「直せば?」
「……朝、言われます」
悠斗はまた頭へ手をやった。
押さえた髪は、手を離すと少し戻った。
佐伯が、笑いを隠すように本を持ち直した。
「お好きなんでしょうね。先生の姿が」
「そうだと、いいんですけど」
悠斗は視線をそらした。
「最近は小吉も、自分の布団を選ぶ日が増えて」
「そばにいなくても、平気になった?」
「いえ。夜中に起きたら、いるかって聞くんです」
藤井は、悠斗の顔を見た。
「何て答えるの?」
「いるよ、って」
返事に迷いがなかった。
佐伯は本を閉じた。
「それなら、安心して眠れますね」
「だといいんですけど」
悠斗はそう言ってから、少し笑った。
「昨日も、自分の布団だったんで」
*
「悠斗君、そろそろ帰りますよ」
「え?」
悠斗が声のする方を振り返った。
藤井も、そちらへ顔を向けた。
銀縁の眼鏡をかけた男が、通路の端に立っていた。
片手には、児童書が一冊。
今までずっとそこで本を見ていたような、落ち着いた立ち姿だった。
佐伯も、自然に頭を下げかけた。
途中で、止まった。
「……いらっしゃいませ?」
「こんばんは」
男は穏やかに会釈をした。
悠斗が、ゆっくり振り返った。
「園長。いつからいたんですか」
「続編って、出るんですかね、というお話から」
「最初からじゃないですか!」
悠斗が声を上げた。
佐伯は、ゆっくり入口のほうを見た。
それから園長を見た。
「お連れ様がいらしたとは気づかず、大変失礼を」
「いいえ。どうぞ、お気になさらず」
藤井はその横で、笑っていた。
「本当にそうなんだ。いつの間にか、いるんだね」
「感心してないで、教えてくださいよ」
「俺も気づかなかったから」
藤井は佐伯を見た。
佐伯は、かすかに首を横へ振った。
どちらも、通路を誰かが歩いてきた覚えはなかった。
「宵待保育園の、夜久です」
「佐伯です。こちらは藤井さん」
「どうも」
藤井は、まだ笑いながら頭を下げた。
夜久園長は何も気にした様子もなく、手にしていた本を戻した。
「お邪魔してしまいましたね」
「いえ。お話、楽しかったです」
佐伯が答えた。
「続編について、ご相談にいらしたそうで」
悠斗の肩が、少し動いた。
「相談というか。先に言っておいたほうがいいかなって」
「何をです?」
「何か起こすなら、せめて事前に教えてほしいと」
「作者の方に?」
「はい」
夜久園長は、少し考えた。
「ことちゃんのお話は、先に聞かないことが多いようですが」
「それとこれとは、別です」
藤井が笑った。
悠斗は本を棚へ戻した。
佐伯に背表紙の位置を教えてもらい、隣の本とそろえる。
「また来てもいいですか」
「うん。何も起きてないときに」
「そのほうがいいです」
悠斗は、今夜いちばんはっきり頷いた。
*
夜久園長は、悠斗を先に通路へ向かわせた。
それから藤井へ顔を向けた。
眼鏡の奥の目が、一度、藤井の目を見た。
「藤井さんも、早くお帰りになった方がいいですよ」
藤井は壁時計を見た。
「……もう、そんな時間か」
園長は、柔らかく微笑んだ。
佐伯にも会釈をし、悠斗のあとを追った。
通路の角で、黒いジャージが振り返る。
「じゃあ、また」
「またね」
藤井が手を上げた。
悠斗の姿が棚の向こうへ消える。
園長も、それに続いた。
店内が静かになった。
佐伯は、二人が消えた棚を見た。
「……結局、お二人とも、普通の方ではないんですね」
「悠斗は半妖。お母さんが雪女なんだよ」
「雪女」
「うん。園長は、ぬらりひょん」
「ぬらりひょん」
佐伯は同じ言葉を繰り返し、もう一度通路を見た。
「それで、いつの間にか」
「そうそう。最初からいたっていうの、らしいよねえ」
藤井は楽しそうだった。
「読んでて知ってても、全然分からなかった。いやあ、初めて妖怪見たわ」
「……半妖の方も、いらしたんですよね」
「そうだね。二人も会えた。あ、佐伯さん、それ読むなら先に言っておくけど」
藤井は佐伯の持つ本を指した。
「園児も、全員妖怪だから」
「先に教えていただきたかったですねえ」
ようやく、佐伯も笑った。
藤井は椅子へ戻り、自分の本を開いた。
「早く帰ったほうがいいって言われたけど、あと一章だけ」
佐伯は返事をしかけ、少し止まった。
早く帰ったほうがいい。
園長は、藤井にそう言った。
「佐伯さんも読む?」
「……ええ。まず、こちらから」
佐伯は『宵待保育園』の最初のページを開いた。




